謹賀新年

 


 遅ればせながら謹んで新春のご挨拶を申し上げます。
 2012年は多難な年でした。自然災害に人的災害も重なり、もろもろの変化をめぐり、様々な力が強くぶつかり合う一年でもありました。

◆中国にとっては、あまりに長く続いた疾走のために調子が狂い始めた年でした。
 今から20年あまり前、中学生だった私は、「お前ら中国人は怠け者だ」と仕事をさぼりたがる従業員を怒る外資経営者が多いという新聞記事をとても印象深く読んだことを覚えています。もう今では、こんなことを言う外国人はどこにもいないのでは。それどころか、「中国人ほど恐ろしいぐらい働く国民はいないのでは」と言われているかもしれません。
 しかし、みんなが何のためにそこまで忙しくしているのか。
私たちが向かおうとしている方向、または、多くの中国人をぎっちり巻いたネジの反動のように動かしているものは何か。その原動力には、お金を稼ぐこと以外に、どんなものがほかにあるのでしょうか。
 そう考えると、時々不安に陥ったりします。充実した空虚感とでも言うのでしょうか。「空芯」状態にされたまま、動きを止めることができない。これがいま、自分自身が置かれている時代なのでしょうか。

◆昨年は、仕事で国内10あまりの都市を回りました。と言っても、そのほとんどが北京の自宅から会議開催地まで直接運ばれる、言ってみれば、「ロケット打ち上げ式」の出張でした。それでも、少しは空から、あるいは地上から「風景」を眺めることができました。距離をおいての中国観察でした。      

          瀋陽行き高速列車沿道の眺め
 ところで、そうして眺めた中華の大地は、どんどん「ゲーム」の世界に似てきているように感じて仕方ありません。画一した、角ばった直線ばかりの近代化した建物の多いこと。それも姿も形も高さも同じで、まるで工場から大量生産、大量加工して吐き出されたような建物が、一気に増えました。
いまの中国では、人々がこの「希望に満ちた」はずの大地で一生懸命に作付けしているものは、農作物ならぬ建物なのです。
 さて、今度は都市の内部を眺めました。と、「私は拝金教信者なのよ」とでも宣言しているような建物がでんと構えています。(写真上は銅銭の形をした建物、写真下のビルの名前は「君尚金」)

 繁華街をそぞろ歩きすれば、世界が確実に身近になっています。代わりに、中国が遠のいています。どこの大都会でも、栄えているのは、東京の大通りと変わらない世界に進出しているブランド店でした。その都市の個性的な店や風情がどんどん薄れてしまい、首都北京もこの点、例外ではありません。

 振り返ってみれば、この一年、様々な出来事が突如起き、すばやく忘れ去られていきました。「あっという間の一年だった」。そう思う人も多いかもしれません。
 下半期からようやく少しスピードダウンしてきた中国。決して忘れさってはならないものは何か、これを真摯に考える時がやって来たように思います。
                 ◆ ◆
 私の職場は昨年、開局70周年を迎えました。年頭から年末まで、お祝いムードがほぼ一年続いていました。私のいる日本語部はもっとも早くから放送開始した言語部なので、OBたちの取材など、歴史を掘り下げる一連の企画が行われました。私もスタッフの一員として慣れない動画制作の仕事を初めて試み、満足した点、うまくできなかった点それぞれあり、またチャンスがあれば、続編を作りたいなと思っています。
 (シリーズ動画「北京放送の70年」のご鑑賞は http://japanese.cri.cn/781/2011/01/26/Zt142s170044.htm

 ところで、年末に開かれた局内会議での指導者の言葉に深くうなずきました。
「自己満足から脱出し、視聴者に受け入れてもらえる放送局に変身できるか否かが、局の存続にかかっています」
 道筋がまだ見えません。しかし、「変えなくちゃ」の意識が共有されただけでも打開に向かっての第一歩です。

◆昨年、私が引き受けた仕事の中には、東日本大震災関連のことが大きなウェートを占めていました。
 局内での特別番組の企画のほか、同僚たちや通訳の仲間たちと一緒にCCTVのNewsチャンネルで40日間ほど放送通訳のお手伝いをしました。
(日本語月刊誌『人民中国』への寄稿:「声の力を信じたい」
 http://gamaguchi-jyuku.seesaa.net/article/190819864.html
 また、年末には、北京で映像制作の仕事に携わっている有志の皆さんが企画した、日本ドキュメンタリー映像交流活動の「2011REAL」で、司会と通訳をさせていただきました。

 大震災で揺れ動いた中、求めるべき変わらないものは何かが今回のイベントの大きなテーマでした。
 「人間は大自然との連鎖の中にこそ生きている。命はつないでいけるからこそ意義がある。しかし、原子力はそういった様々なもののつながりを断ってしまう。だから原発には反対なのだ」
 岩手県のたいまぐらを拠点に撮影している澄川嘉彦監督も、「祝の島」を女性スタッフの手だけで完成させた纐纈あや監督もまったく同じことを話していました。
 日本社会は今回の大震災を契機に、大きく変わろうとする気運が高まっていることを実感させました。そうした動きの中には、祝島の住民のように、ただ「千年のスパンで続いてきた変わらないもの」を守って、それを後世に伝えたいために頑張っている人も大勢いるのです。皆さんの頑張りに成果が実るよう祈っております。

 今年、中国では、1941年生まれの私の父と同年代の指導者たちが表舞台から退いていきます。彼らよりも一つ若い世代が中国を陣取っていきます。いつか、私の世代もそうして、様々な分野で一番表の舞台に立って舵取りをしていく番がやってきます。本当にそうなった時に、「まだ未熟者です」とは言っていられない。ばかな私は、そういうことをごく最近になってようやく初めて意識できました。
 昨年末、高校の同級生を取材しました。安徽省の農村生まれの彼は大学卒業後、国営繊維貿易会社に入社。中国のWTO加盟に触発を受け、8年前に辞職して起業。いま、彼が友人とともに作った会社は、年商10億元の企業に成長しました。まだ中小企業ですが、リーマンショックの余波に揉まれながらも、倒れない強固な体質を構築できました。海外ブランドに自社デザインを付け加えたところが強みで、海外市場で売ると同時に、今後は国内における独自ブランドの構築にも力を入れていくと言います。
 「中国では、ハイエンドのブランドは悉く海外のもので占められています。中国人企業家として心が痛む事態です。私はそういう中、自分の命が終わった後も、後世に長く受け継がれていけるブランドを作りたい」
久しぶりに再会した同級生は、しっかり自分の責任、そして、人生の意義を考えて行動しているのです。決して富の蓄積のためだけではなく。何とも力強く励まされました。
 余談になりますが、昨年秋に上海で行われた稲盛和夫氏の講演会で、同級生は事務局メンバーとして運営に加わったようです。それまではもっぱら欧米市場を相手にしてしかビジネスをせず、日本のことをあまり良く思っていなかった彼は、「日本人経営者に魅了された」と興奮した様子でした。
 今年40歳になる彼は、まさに中日国交正常化実現の年前後に生まれた世代でもあります。こうして日本と中国人との距離がどんどん縮まってきたことも実感させられました。

◆個人的に、新しい年の一番の願いは年相応に成長できることです。昨年は大勢の方々に力強い応援とサポートをいただき、心から御礼申し上げます。筆不精で、ろくにご挨拶もできずに、月日が過ぎ去ってしまったことも多々あり、その非礼を何とぞお許しくださるようお願い致します。
 中日国交正常化が不惑の年を迎える本年も、引き続きラジオの仕事と会議通訳を二本柱に、微力ながらも日中間の速やかな交流に少しでも力を捧げることができればと願っております。
 今年もまたいろいろとお世話になるかと思いますが、引き続きご指導、ご鞭撻のほど、何とぞよろしくお願い申し上げます。