番組案内:新年特番&陳真先輩の思い出など

昨年末からの番組をまとめてご案内します。
■【新年特番 CRIからのHappy New Year2012】入り口はこちらから↓
http://japanese.cri.cn/other/12newyear/happy.html
◆つばめが担当する番組「暮らしの中のエコノミー」↓
 http://japanese.cri.cn/782/2012/01/03/144s185196.htm

■CRI開局70周年スペシャル。半世紀あまりにわたるリスナーと北京放送との絆にスポットを当ててみました↓

【第一部】新中国からの電波

 http://japanese.cri.cn/782/2011/12/01/141s183684.htm

【第二部】中国語講座のファンです

 http://japanese.cri.cn/782/2011/12/01/141s183683.htm

【第三部】広がる中国での輪

 http://japanese.cri.cn/782/2011/12/01/141s183682.htm

【第四部】現場の皆さんから

 http://japanese.cri.cn/782/2011/12/01/141s183681.htm

■CRIウェブトーク【気ままに談談】
◆【リスナー物語―東京都・奥田正彦さん】
(上)http://japanese.cri.cn/1041/2011/12/08/241s183971.htm
 97年、奥田さんは観光列車紫金号で女性車掌さんと出会いました。現在もその付き合いが続いています。
(下)http://japanese.cri.cn/1041/2011/12/13/162s184206.htm
 中国語講座の陳真講師からある日、「奥田正彦様気づけ花様」宛てのお手紙が送られてきました。一体、どんなことが書かれているのでしょうか。
キヤノン中国・小澤秀樹社長の巻 
http://japanese.cri.cn/1041/2011/12/27/201s184815.htm
 小澤社長はギターのひきがたり名人でもあるようです?!
◆【ようこそCRIへ】シリーズ〜新人がやってきました!(下)
 http://japanese.cri.cn/1041/2011/11/11/241s182788.htm
 2011年入局の新人さんお二人の話の続きです。

謹賀新年

 


 遅ればせながら謹んで新春のご挨拶を申し上げます。
 2012年は多難な年でした。自然災害に人的災害も重なり、もろもろの変化をめぐり、様々な力が強くぶつかり合う一年でもありました。

◆中国にとっては、あまりに長く続いた疾走のために調子が狂い始めた年でした。
 今から20年あまり前、中学生だった私は、「お前ら中国人は怠け者だ」と仕事をさぼりたがる従業員を怒る外資経営者が多いという新聞記事をとても印象深く読んだことを覚えています。もう今では、こんなことを言う外国人はどこにもいないのでは。それどころか、「中国人ほど恐ろしいぐらい働く国民はいないのでは」と言われているかもしれません。
 しかし、みんなが何のためにそこまで忙しくしているのか。
私たちが向かおうとしている方向、または、多くの中国人をぎっちり巻いたネジの反動のように動かしているものは何か。その原動力には、お金を稼ぐこと以外に、どんなものがほかにあるのでしょうか。
 そう考えると、時々不安に陥ったりします。充実した空虚感とでも言うのでしょうか。「空芯」状態にされたまま、動きを止めることができない。これがいま、自分自身が置かれている時代なのでしょうか。

◆昨年は、仕事で国内10あまりの都市を回りました。と言っても、そのほとんどが北京の自宅から会議開催地まで直接運ばれる、言ってみれば、「ロケット打ち上げ式」の出張でした。それでも、少しは空から、あるいは地上から「風景」を眺めることができました。距離をおいての中国観察でした。      

          瀋陽行き高速列車沿道の眺め
 ところで、そうして眺めた中華の大地は、どんどん「ゲーム」の世界に似てきているように感じて仕方ありません。画一した、角ばった直線ばかりの近代化した建物の多いこと。それも姿も形も高さも同じで、まるで工場から大量生産、大量加工して吐き出されたような建物が、一気に増えました。
いまの中国では、人々がこの「希望に満ちた」はずの大地で一生懸命に作付けしているものは、農作物ならぬ建物なのです。
 さて、今度は都市の内部を眺めました。と、「私は拝金教信者なのよ」とでも宣言しているような建物がでんと構えています。(写真上は銅銭の形をした建物、写真下のビルの名前は「君尚金」)

 繁華街をそぞろ歩きすれば、世界が確実に身近になっています。代わりに、中国が遠のいています。どこの大都会でも、栄えているのは、東京の大通りと変わらない世界に進出しているブランド店でした。その都市の個性的な店や風情がどんどん薄れてしまい、首都北京もこの点、例外ではありません。

 振り返ってみれば、この一年、様々な出来事が突如起き、すばやく忘れ去られていきました。「あっという間の一年だった」。そう思う人も多いかもしれません。
 下半期からようやく少しスピードダウンしてきた中国。決して忘れさってはならないものは何か、これを真摯に考える時がやって来たように思います。
                 ◆ ◆
 私の職場は昨年、開局70周年を迎えました。年頭から年末まで、お祝いムードがほぼ一年続いていました。私のいる日本語部はもっとも早くから放送開始した言語部なので、OBたちの取材など、歴史を掘り下げる一連の企画が行われました。私もスタッフの一員として慣れない動画制作の仕事を初めて試み、満足した点、うまくできなかった点それぞれあり、またチャンスがあれば、続編を作りたいなと思っています。
 (シリーズ動画「北京放送の70年」のご鑑賞は http://japanese.cri.cn/781/2011/01/26/Zt142s170044.htm

 ところで、年末に開かれた局内会議での指導者の言葉に深くうなずきました。
「自己満足から脱出し、視聴者に受け入れてもらえる放送局に変身できるか否かが、局の存続にかかっています」
 道筋がまだ見えません。しかし、「変えなくちゃ」の意識が共有されただけでも打開に向かっての第一歩です。

◆昨年、私が引き受けた仕事の中には、東日本大震災関連のことが大きなウェートを占めていました。
 局内での特別番組の企画のほか、同僚たちや通訳の仲間たちと一緒にCCTVのNewsチャンネルで40日間ほど放送通訳のお手伝いをしました。
(日本語月刊誌『人民中国』への寄稿:「声の力を信じたい」
 http://gamaguchi-jyuku.seesaa.net/article/190819864.html
 また、年末には、北京で映像制作の仕事に携わっている有志の皆さんが企画した、日本ドキュメンタリー映像交流活動の「2011REAL」で、司会と通訳をさせていただきました。

 大震災で揺れ動いた中、求めるべき変わらないものは何かが今回のイベントの大きなテーマでした。
 「人間は大自然との連鎖の中にこそ生きている。命はつないでいけるからこそ意義がある。しかし、原子力はそういった様々なもののつながりを断ってしまう。だから原発には反対なのだ」
 岩手県のたいまぐらを拠点に撮影している澄川嘉彦監督も、「祝の島」を女性スタッフの手だけで完成させた纐纈あや監督もまったく同じことを話していました。
 日本社会は今回の大震災を契機に、大きく変わろうとする気運が高まっていることを実感させました。そうした動きの中には、祝島の住民のように、ただ「千年のスパンで続いてきた変わらないもの」を守って、それを後世に伝えたいために頑張っている人も大勢いるのです。皆さんの頑張りに成果が実るよう祈っております。

 今年、中国では、1941年生まれの私の父と同年代の指導者たちが表舞台から退いていきます。彼らよりも一つ若い世代が中国を陣取っていきます。いつか、私の世代もそうして、様々な分野で一番表の舞台に立って舵取りをしていく番がやってきます。本当にそうなった時に、「まだ未熟者です」とは言っていられない。ばかな私は、そういうことをごく最近になってようやく初めて意識できました。
 昨年末、高校の同級生を取材しました。安徽省の農村生まれの彼は大学卒業後、国営繊維貿易会社に入社。中国のWTO加盟に触発を受け、8年前に辞職して起業。いま、彼が友人とともに作った会社は、年商10億元の企業に成長しました。まだ中小企業ですが、リーマンショックの余波に揉まれながらも、倒れない強固な体質を構築できました。海外ブランドに自社デザインを付け加えたところが強みで、海外市場で売ると同時に、今後は国内における独自ブランドの構築にも力を入れていくと言います。
 「中国では、ハイエンドのブランドは悉く海外のもので占められています。中国人企業家として心が痛む事態です。私はそういう中、自分の命が終わった後も、後世に長く受け継がれていけるブランドを作りたい」
久しぶりに再会した同級生は、しっかり自分の責任、そして、人生の意義を考えて行動しているのです。決して富の蓄積のためだけではなく。何とも力強く励まされました。
 余談になりますが、昨年秋に上海で行われた稲盛和夫氏の講演会で、同級生は事務局メンバーとして運営に加わったようです。それまではもっぱら欧米市場を相手にしてしかビジネスをせず、日本のことをあまり良く思っていなかった彼は、「日本人経営者に魅了された」と興奮した様子でした。
 今年40歳になる彼は、まさに中日国交正常化実現の年前後に生まれた世代でもあります。こうして日本と中国人との距離がどんどん縮まってきたことも実感させられました。

◆個人的に、新しい年の一番の願いは年相応に成長できることです。昨年は大勢の方々に力強い応援とサポートをいただき、心から御礼申し上げます。筆不精で、ろくにご挨拶もできずに、月日が過ぎ去ってしまったことも多々あり、その非礼を何とぞお許しくださるようお願い致します。
 中日国交正常化が不惑の年を迎える本年も、引き続きラジオの仕事と会議通訳を二本柱に、微力ながらも日中間の速やかな交流に少しでも力を捧げることができればと願っております。
 今年もまたいろいろとお世話になるかと思いますが、引き続きご指導、ご鞭撻のほど、何とぞよろしくお願い申し上げます。

緊急案内、7日までオンライン無料鑑賞できる中国映画

 遅ればせながら、日本国内にいらっしゃる皆様へのご案内です。
 中国国際放送局と日本の文化放送、福井ケーブルテレビ、日活との共催による「映像中国」〜ネットで観る中国映画祭が7日まで開催されます。
 7日まで、7本の中国映画(日本語字幕入り)を無料鑑賞いただけます。
 アドレスはhttp://www.cinema-china.jp/

 元同僚、弘美人さんがご覧になってからのご感想を無断掲載させていただき
ご参照いただければと思います。
 ちなみに、弘美人さんのブログは http://gamaguchi-jyuku.seesaa.net です。
 少しでもたくさんの方々に見ていただけたら嬉しいです。
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■一番感動したのは、最後の「長調」です。
オルティンドーは、日本の民謡の追分や馬子唄のルーツだそうですが、
やっぱり、大地とのつながりを感じました。
お祖母さんが全ての人生の事象を大きな心で受け入れ、
自然や動物に人間と変わりない愛情を注いで生きている姿に感動しました。
駱駝の出産にも死にも、優しい言葉をかけ続ける姿、赤ちゃん駱駝の泣き声に涙が止まりませんでした。
どうやって駱駝に演技をさせたのでしょう? 本当の場面だったのでしょうか?
音声を発することが私たちの仕事です。
どういう声を、どんな心で発していけば良いのか、
この映画が大きく示唆してくれていると思いました。
声は人生なのですね。内モンゴル旅行をしたことがありますので、とても実感がありました。

■「狂った恋の落とし方?」は意表をついたストーリー展開で面白かったです。
離婚式や生前葬は、日本でもあるのですが、
生きること、愛することの意味を、軽妙に語る構成に脱帽です。
最後のシーンは自殺幇助じゃないの! と心配しましたが(笑)、まあ”お洒落”な人生の終わりかも知れません。

■「大明宮」は歴史の勉強になりましたが、ちょっと退屈しました。

■「アナイ」は民族の踊りや合唱、景色の美しさに魅了されました。
伝統を次世代へ繋いでいく、深い深い愛。刺繍も本当に美しいし、ああやって創られているんだなと、印象に残りました。

■「ガンラメイド」。ちょっとストーリーが作為的だけど、チベットの景色を堪能しました。
是非行きたいと思っているカイラスがチラッチラッと写るので、かなり興奮してみました。
魂の考え方も私は受け入れられるし、好きです。

■「雲の上の太陽」は、最初の外国人と現地の人たちの考え方の違いでぶつかるところなど
とても面白かったです。これからどうなるのだろうとワクワクしたのですが、
まあ、教科書的にストーリーが進んでしまって、取っ組み合いの喧嘩が始まるというシッチャカメッチャカはおきませんでした。
皆善人。ここでも民族芸能がとても魅力的な映像になっていて、美しさにトローンと涎をたらしてみました。
中国って広いから、ものすごく多様な文化を包容しているんですね。
民族の誇りが高らかに詠われているような映画だと思います。
ある意味では人間らしい、自然と共存するお手本の映画でしょう。
日本にいる、中国人の友人は、この映画にとても感動したと言っていました。

■「靴磨きの少年」は愉快でした。出稼ぎの農民の姿を気取らずによく表現していたと思います。
私が知っている中国の人たちがいっぱい出てきて、とても生活感にあふれていました。
少年を見ていて、日本の漫画の「はだしのゲン」の、ゲンのような子だなあと思いました。
混沌とした現在の中国の姿、お金持ちでも、貧乏でも、プライドを持って生きる
優しい人間たちを、愉快に描いていると思います。元気がでますよね、こういう映画は。
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ついていけない!〜高速列車での済南出張

 初めて乗ってみた。この夏に開通した北京ー上海間の高速鉄道に。北京南駅から済南南駅までの乗車だった。
 距離は480キロ。走行時間1時間半。途中停車駅はなし。グリーン席の料金は315元。
 列車の中は広々としていて、乗り心地は悪くはなかった。

 1989年、私は初めて北京に来た時、父と一般の快速列車に乗っていた。済南についたのは夜明け前か夜が明けたばかりだったのか、15分か20分以上も停車していた大きな駅だった。当時は済南までくると、北京までは後6〜7時間。列車も一息つく必要があるようで、長めの休みが取られていた。
 それが、今ではこんなに快適な列車で、こんなに早く着くことができる。隔世の感があり。

 新幹線の乗り心地と良く似ていると思った。が、うまく言えないが、何かが違っている、何かが大きく違うようだ。それはいったい何だったのだろう。
 はっきりと答えられない。とりあえず、違和感を抱きながら、とりとめもなく車窓の外を眺めることにしていた。と、見えてきたのは、広々とした華北平野の大地だった。綿花の取り入れシーズンのようで、大きな俵がたくさん置かれていた。手作業でせわしく綿を積んでいる作業員の姿もところどころ見えた。
 速度は時速300キロ。ほぼ安定的に走行していた。それだけあって、車窓の外の風景もすばやく変わっていく。村が見える。高層ビルが見える。工場が見える。高速道路が見える。水が見える。枯れた大地が見える。冬小麦の畑なのか、青々とした緑も見えた。
 ただ、見えてきた村というのは、道路の舗装もままならぬ村で、田んぼのあぜ道にはカラフルなゴミが積みあがっていた。また、高層ビルというのは、野原のど真ん中に誰かが種でも蒔いたように、にょきにょきと高くそびえているビルだけの建物が多かった。周りとは極めて不釣合いを感じるビルだけのところだった。それも種が同じだったようで、色、形、高さ、配置、何もかも統一規格だった。
 さらに、工場というのは、あたり一面が真っ白に染まったセメント工場もあった。
 高速道路というのは、実に広々としていて、ぴかぴかの路だった。野原のど真ん中を縦横していて、たいへん目立つ存在だった。ただ、通行車両が少なく、たまにしか走っていなかった。白い点線はそのお陰で、たいへん目立って見えた。
 一方、水というのは、あぜ道の水路にせよ、ため池にせよ、河川にせよ、水という水が汚れていて汚かった。中には、澄んだ墨汁のような小川も見えて、少しも波風はなく、出土されたばかりの銅鏡のような光を放っていた。そこにはおそらく生き物がまったくいない、死の光だった。その光をうっかり目でキャッチした自分は、身震いをしてしまった。水が無言の抗議をしているのが聞こえたからだ。
 
 「和谐号」の名とは正反対に、目の前に見えたすべてが必ずしも「調和」とも言えない。あえて、きれいな言葉で表現するならば、多様性があるというのだろうか?が、正直な言葉で言うと、支離滅裂そのものだった。自分自身が身を置いたのは、中国のほこりである「高速列車」。車内は21世紀らしい近代的な空間。しかし、ちょっとでも目線を外にやると、見える範囲だけでも、別世界が広がっていた。近代以前とさほど変わらない世界だったり、近代以前だと想像だにできないゴミにひどく汚染された環境もある。これもそれも同じ21世紀の中国なのか、とまじめに考えると頭が痛くなる。統一感はない。何もかもばらばらに存在している。
 快適なはずの高速鉄道の旅は、有無を言わさず見せられた風景のせいで、快適さが半減し、もう半分は苦痛に悩まされていた。
 そして、到着した済南のホテル。国際会議が開かれる会場は山東大厦。いくつかの複数のビルや講堂からなっている超大型の建物群だ。すべての建物は廊下でつながっていた。国賓館以上のスケールと豪華さ。人民大会堂の入り口にあるような太い大理石の柱がふんだんに使われており、ギリシャの宮殿か、秦の始皇帝の幻の宮殿か。錯覚が起きてしまうほどだった。

 とにかく高い。そして、広い。バンケットは3階建てのビルが丸ごとすぽっと入るほどの大きさ。ただ、がらんと空いていた。宴会用の円卓では、いっせいに60人が丸く囲んで食事をしていた。(しかし、それだと机の向うにいるとおしゃべりしたいと思っても、できっこない)。通った廊下には、いたるところに孔子孟子の教えを想起させる書や置物が置かれていた。これも良く言えば、おおらかで骨太で存在感がある。が、悪く言えば、大而无用(ばかでかい)、必要以上、実用性を通り越して、面子を重んじすぎたということにつきる。
 びっくりしたのはホテルの部屋。まずは宿泊棟は1階から20数階まで大きな吹き抜けになっている。客室はアート型の壁に沿って配置されている。コンピューターゲームでセッティングされているようなバーチャル世界そのものだった。


 眺めると、鳩小屋という言葉が思い出される。ただ、部屋の中はきわめて広い。30平米以上もあるのでは。ウォッシュルームにはシャワールームに便器、洗面台、湯船がそれぞれゆったりと自分のスペースを確保していた。
 さて、ドアを開けた瞬間のことだった。カード式の鍵を通し、ドアをあけたとたん、ガーと部屋の向うで電動の音がした。カーテンを自動的にあけてくれたのだ。荷物を降ろした。「さあ、トイレに入ろう」とウォッシュルームに入った。シー…また電子音がした。便器のふたを自動的に開けたのだ。「ご主人様、おまちしておりました」、とまでは、さすが音声ガイドはなかった。
 そして、鏡の脇にあるボタンを押すと、2秒もしない内に、湯船付近のガラスの壁に電気が通され、一瞬にしてガラスが曇って電動式のカーテンになった。とにかく、不思議な御伽噺の国ようで、手品の連続だった。
 ただ、翌日になって初めて気づいたことに嘆いた。それは、先進的なカーテンには、全部開けるか、全部閉めるか、そのどちらかしか選べない。ほど良い加減で半分だけ閉めようと思っても。選択肢は二つしかない。今度は電動をやめて、手動に変えて、手で調整しようとトライしてみた。しかし、今度は、カーテンのほうはプライドが高くて、でんと立ち構えていて、そんな手で俺を動かそうとでも思っているのという構え方で、断固としてやらせてもらえなかった。
 どこか物足りない。どこか尋常じゃない。
 このとっつきにくいカーテンが、そういう今の中国を端的に表したものなのかなと思ったりしてしまった。いや、もしかして、ただ、カーテンの操り方の修行が私に足りなかっただけのことかもしれない。


済南南駅はたいへん広い。まだ利用客がそれほど多くなかったようだ。しかし、市内から15キロ離れている。ただ、もう10年すればどうなるのか、想像はできない。ただ、ここもただ広くて、列車を待っている間に食事でもしようと思っても、選択肢はなかった。お弁当を売るところさえなかった。あったのは、山東省の薄い焼餅のお菓子だけだった。私がついたのは夕食の時間帯だったので、待合室には老若男女がぱりぱりと焼餅を食べていたおかしな風景が見られた(笑)。
 何かが抜けていると言えば、乗務員のことを思い出した。若くてきれいな子ばかりだった。制服もきちんとしていて、格好はよかった。みな、無愛想な人では決してないと思う。しかし、チケットを検査する際、客に一言声をかける心がけがなかった。一等席でも特別扱いされることもなかった。すぐにできるところから抜けていたものをどんどん追加できるといいなと思っている
 

 さて、会議が終わり、済南南駅から再び高速列車に乗った。1時間半ほどで今度は北京南駅に降り立った。気づいたら、自分が済南に搬送されて24時間、屋根のないところを一歩も歩かなかった。今回もポイント対ポイントの「衛星発射式」の出張だった。北京と済南の距離がうんと縮まったのはもちろんのこと。ただ、私にしてみれば、この二つの町はすでにつながっている一つの町にさえなってしまっている。帰途では、夜の帳も降り、外を眺めても何か見えるわけでもない。そう思って、今度は『スティーブジョブス』を読むのに専念していた。あっという間の1時間半だった。市内移動の感覚だった。480キロの土地のこと、気づいたら、もう自分の頭の中からすぽっと抜けてしまった。記憶すら薄れてしまおうとしている。支離滅裂と違和感を感じさせたのはまだ昨日のことだったのに。恐ろしく思った。

 


 
 

御蔭様で無事70歳を祝いました


 お蔭様で、70周年お祝いの山場が過ぎました。ばたばたしている中、収録が何とか済みました。大量の編集作業が待っています。とりわけ、ご協力いただいたリスナーの皆様に心から謝謝!


◆各社の関連報道は以下のリンクから:
http://jp.xinhuanet.com/2011-10/19/c_131200058.htm
http://japan.xinhuanet.com/2011-10/19/c_131199953.htm (中国語記事)
http://www.peoplechina.com.cn/xinwen/txt/2011-10/19/content_399370.htm
http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2011-10/19/content_23669521.htm
http://japanese.china.org.cn/life/txt/2011-10/18/content_23654827.htm
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4855884.html

連休中の番組収録

 連休らしく、今日は気楽なテーマでおしゃべりしました。
 中国は1日から国慶節の大型連休が始まりました。今年の連休は、北京では青空が広がり行楽日和が続いていますが、上海周辺はあいにくの雨、南の海南省や広東は台風の影響を受けたそうです。そのため、昨年同期に比べて、北方では観光客が伸びているものの、南方では人出が例年とさほど変わらないということです。

 連休中にお届けする今週の番組のキーワードは「大型連休」と「物価」です。北京、上海、広州の各地の連休の様子をご紹介します。
 10月1日、温家宝首相が北京の大学食堂を視察し、朝食を食べていた学生に「ゆで卵は1個いくらですか」と声をかけました。それがきっかけで、いま、インターネットのミニブログで話題が沸騰です。そのわけは? また、物価の上昇傾向は効果的に抑えられたのでしょうか。
 

カーテンを洗う 心を洗う

 大型連休の3日目が終わろうとしています。昨日の故宮には、延べ約13万人が訪れ、過去受け入れ人数の最高を記録したそうです。今年から、GW中に一日あたり8万人以内に抑えるという入場制限を初めて設けました。故宮を敷き詰める石畳、今日も磨り減り続けているようです。

 さて、GWが始まってからまだどこも出かけていないつばめです。人ごみを恐れて、出勤のほか、家の中の整理清掃に専念することにしています。カーテンを洗ったり、長年使っていないものを処分したりすることに追われています。埃のたくさん溜まったこと。バケツの中はすぐに墨汁に変わってしまいます。
 「大震災の後、ものの考え方が変わり、いろんなものを処分してしまいました」。
 大掃除をしながら、何故か思い出したのは、先日、届いた東京からの雪枝さんのメールです。
 雪枝さんは四半世紀にわたってCRIを聞いてくださっています。開局70周年記念の特番の出演お願いで久しぶりメールをしたら、読むとどきっとした一行が目に入りました。ちなみに、その次のフレーズに心打たれました。
 「しかし、北京放送の資料は捨てずに、とっておきました」。リスナーの方々との心の交流に頑張ってきた先輩たちは、どれだけ嬉しいことか。雪枝さんに心から謝謝!
 さて、つばめ宅に置いてあるだけで、何年も触れてもいないものの中には、大量のテープがありました。しかし、手にとって見ると、一つ一つ思い出に残る記録でもあります。
 2002年の夏に、FM富士の西本DJの番組に出演した時の録音を聞いてみました。おそらくラジオ番組の作り方や雰囲気など、いまも基本的なスタイルは変わっていないように思います。しかし、話の内容には苦笑いしてしまいました。番組の中で、いまの中国を代表する世代として紹介したのは、なんと「70后」(1970年代生まれの人間)でした(笑)。もういつの間にか、中国では忘れ去られ、人々の耳から遠のいてしまった表現なのです。
 いまはなんたって「80后」世代。ところで、「80后」も奢れるのはもうあまり日がないかもしれません。何故なら、「90后」たちは密やかにではありますが、力を伸ばし続けてきているからです。CRIの今年の新入局員30数人いますが、その中に、90后世代は2人もいると聞いています。
 この10年、中国の変化も凄まじいものでした。言うまでもなく、日本も世界も同じです。
 世の中のすばやく変化しているスピードを変えることができませんが、それを知りながら、どうやって自分のスピードをしっかり舵取りできるのか、大きなチャレンジです。
 埃の掃除は心の掃除でもある。こんなことを考えている今日この頃です。