エレンホトのヒメユリ:サリーナさん

●夜行バスの旅)エレンホト⇔北京


今朝3時、無事北京に到着。寝台付きの夜行バスは思ったよりも快適でしたが、
やはり10時間以上乗ると、エンジンの音で耳が遠くなり、疲れを感じます。
乗客の3分の1はモンゴル人。
そのほとんどは、服装などを仕入れるため、北京に入るビジネスマンバス。
バスも彼らに商品を載せやすいため、発着地点の六里橋ではなく、
温州商人の集まっている大型卸売市場の密集している
大紅門に止まりました。
ちなみに、
エレンホト⇔北京は600キロ、バスは一日7往復あり、料金は片道180元。
これに比べれば、シリンゴル盟の中心の町・シリンホト⇔北京は
500キロ、バスは一日3往復、料金は片道230元。
エレンホトの往来の頻繁さが伺えます。

7月末の草原
8月5日の草原(シリンホト⇔エレンホトの道中)
10日ぶりのシリンゴル大草原は、十分雨に潤われたようで、
艶のある緑に染まりました。
のねぎは紫の花を満開させ、真っ青な青空に映えて、幻想的な世界でした。



●シリンゴルのヒメユリ:漂流の人生


エレンホトで、「生態移民」の取材で、
サリーナさんというモンゴル族の女性と出会いました。
「サリーナ」はモンゴル語で、「ヒメユリ」の意味だそうです。
サリーナさんは大草原のモンゴル族の牧畜民の家で育てられ、
4年前まで、自分もその草原で放牧をしていました。
しかし、そんな彼女は、「私のふるさとは安徽省です」という
私の自己紹介を聞き、「私も安徽省の人間のようです」という
驚きの返事を返してきました。
彼女は漢語も一応はしゃべれますが、
モンゴル語だと、スピードが一気に早くなり、
淀みなく、意思が表現できるようになります。
表情も顔もどこを見ても、私には
サリーナさんがモンゴル族ではない証拠を見当たりません。
しかし、彼女は静かな微笑みを浮かべながら、
私の知らなかった歴史を語り始めました。


「私は両親のことを知らない。国に育てられた『政府の子』だ。
 生まれは、安徽省か上海だと言われ、
 一歳の時に草原に送られ、牧畜民に育てられた。
 子どもの頃から、
 周りから『安徽人』、『上海人』だと言われてきた。」



写真を撮る時、サリーナさんにぎゅうと抱き寄せられ、
ほっぺたをくっつけられました。
抱き合い、助け合いながらでないと、
生きていけえる環境の中で育ったからこそ、
自然とこのようなしぐさになるのでしょうか。


話は、1960年代初めの中国の大飢饉に遡ります。
上海、江蘇、安徽などの省から、
内モンゴルに約3000人の「孤児」が送られてきたそうです。
羊肉やミルク、乳製品で子どもが何とか育つだろうと、
国家戦略で「孤児」の移送計画が進められていたようです。
1959年生まれのサリーナさんが、その中の一人です。


「両親の記憶は一切なし。
 探す手がかりも、残していない。帰ってみようという気持ちもない」。
サリーナは「安徽人」と呼ばれながらも、
一度も安徽省に戻ったことがありません。
「両親のこと、恨んでいますか?」と聞いてみましたが、
「知らないから、恨みようがない」、と、
サリーナは微笑を変えることがありませんでした。


最初の養父母の家で6歳まで育てられました。
家が貧しくて、子どもに厳しく当たる親だったそうです。
耐えなくなったサリーナは、ガチャ(村)の書記の家に駆け込み、
引き取ってもらいました。
書記夫婦にたいへんかわいがられましたが、
2〜3年後に文革が始まり、
書記がひどい目に合わされ、
サリーナも仕方がなく、最初の養父母の家に戻らざるを得ませんでした。
その数年後に、書記の家が恋しくなり、再び戻り、
お嫁に行くまで書記さん夫婦に育ててもらったようです。
二転三転の人生だっと言えます。


一方、結婚はしたものの、旦那は酒好きで、
体調を壊し、サリーナは一家の働き手になり、
旦那と3人の子どもを育ちました。
私の同郷だったはずの江南の女性が、
知らない間に、こうして、北国の大草原で
モンゴル族として生きる運命になりました。
こういう歴史があったことは、今回の旅で初め知りました。
一方、驚いた私の反応を見て、
「たくさんいるのよ。こういう人は私の家のまわりにもいたよ」、
と地元の方たちは何とも思っていないようです。



ところで、過去のことは別として、
サリーナさんの今と関連して、
中国が今、直面している深刻な生態危機という問題が浮き彫りになっています。
子どもの頃から青々とした大草原で、
放牧をしながら、生活してきたサリーナは4年前に
思い切った行動に踏み切りました。
自分の家畜と草原を
同じガチャ(村)の人に請け負ってもらい、
一家5人がエレンホト市に移転しました。
連年の旱魃で、牧草がすっかり後退し、
飼料などの費用で牧畜業のコストが高騰し、
このまま放牧していても、生計が成り立たないからです。
旦那と周りの反対を押し切っての決意でした。
「子どもの頃は牧草がとてもよかったよ」、
サリーナは懐かしそうに話していました。



砂漠化や牧草の後退だけでなく、
少し歩いて見ると、ジスリの穴の多さに驚きます
(シリンホト市から車で20分ほどの草原)。


最初の頃は、生きていくすべも知らず、苦労が多かったですが、
その後、エレンホト市のモンゴル服装の工場で職を見つかり、
現在は月給700元と、草原を退去したことで、
政府からの補償金で、「生活には困っていない」と言います。
住まいは、政府の提供した「移民楼」で、
ただで住まわせてもらっています。
二人の娘はお嫁に行き、一人息子は現在、タクシーの運転手になるため、
レーニングを受けている最中です。
サリーナさんのチャレンジは、幸いなことに、
まあまあうまく行っているようです。


一方、草原の環境を守るため、
政府の推進している移民プロジェクト
(草原の過放牧を防ぎ、牧草地帯の後退と生態整備の一環として、
 牧畜民を草原から移転させ、都市部人口にしていくプロジェクト)は
果たして順調なのでしょうか。
平日の昼下がり、「移民楼」団地の空き地に
群がっていた男たちの存在を心配していますが、
現場のことを調査していないため、
良悪を判断する材料が不足しています。
しかし、こんな政策に踏み切らなければならない背景など、
次回以降、少しずつ紹介していきたいと思います。