MJへの愛

北京は今日もぼうとさせる良いお天気。
どうやら明後日から海に行けそうです。
たとえそれが職場の慰安旅行にしても、たとえその海が北戴河でも、
やっぱり嬉しいです。
お天道様、どうかもうしばらく良いお天気でいてくださいね。


マイケル・ジャクソンの関連報道がまだ継続しています。
今日は、同僚のジョウさん(40才)に聞いた話を紹介します。
あまりにもマイケルさんに深い愛情を抱いているので、ついつい聞き入ってしまいました。


ジョウさんは北京生まれの北京育ち。
映画監督の陸川さんと小学校のクラスメートだった上、
小学校3年までは、同じマンションの上下の階に住んでいた
喧嘩仲間でもあったようです。


安徽省南部の「県城」でマイケルさんのことを知った私とえらく違って、
彼は中国文化の中心地・首都北京でマイケル・ジャクソンの刺激を受けていたようです。

マイケルと言うと、彼は延々と一人語りをはじめて、止まることができない。
その彼の言葉を文字で少し再現してみました。
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■真夜中の涙■

マイケルの死の速報は、真夜中ネットで知った。
出し抜けに出たこのニュースを見て。
心から悲しくて、気づいたら涙を流していた自分だった。


その時にやっと納得したことがあった。
何故か、自分が一週間ぐらい前から、
マイケル・ジャクソンの歌を聞きたい!」
という強烈な衝動に駆られていた。
どういうわけだったのか。


本当のところ、この年にもなって、もう若き頃のように、
マイケルの歌を進んで聞こうとしなくなった。
彼のことを思い出したりすらしなくなっている。
しかし、彼の死で改めて記憶が様々と蘇った。


◆“初対面”は加藤登紀子の北京コンサート!◆
アメリカに、「マイケル・ジャクソンというスーパースターがいる」ことを
聞いたのはずいぶん前からだった。
しかし、テレビもテープレコーダーもまだ普及されていない時期だったし、
ラジオも若者をひきつける歌や番組が少なかったので、
マイケル・ジャクソンの歌を聞いたことのある人は実に少なかった。


そんな時、1983年のことだった。
日本歌手・加藤登紀子さんが民族文化宮でコンサートを開くことになった。
(日本も実に神秘的な国で、一切何も知らなかったもの)。
私もコンサートのチケットを入手したので、見に行ってきた。
ところで、開演前の待つ時間に、会場に不思議な音楽が流された。
日本人スタッフたちは私たちがそれまで聞いたことのない
レコードをかけてくれたのだった。
それは斬新な音だった。


その時は、歌った人がマイケルだったとは知らなかったが。
その2年後、中学にマイケル・ジャクソンのテープが
伝わり、皆が気が狂うように彼の歌にはまっていた。
美しい歌が実に多かったよ。


なに、歌詞?
歌詞なんて、英語の流行歌が好きな人は関係ない。
誰も歌詞で歌を聞いていなかったからだ。
検閲があっても認可されたのは、もしかして当局は
「どうせ英語分かる人が少ないし、
 出しても歌詞まで分かる人いない」とでも思ったのだろうか。


英語学習ブームにもあいまって、
海外から伝わってきたありとあらゆる歌手の歌をむさぼるように聞いていた。
しかし、その中でも、マイケルジャクソンの地位は格別に高かった。
私が彼にはまっていた状態は5〜6年は続いていた。
マイケルは私の中学と高校時代の欠かせない思い出となった。


◆「スリラー」からの衝撃◆
あれは1987年、農業展覧間でやった音響展示会だったと思う。
BMG社のブースでは、29インチのカラーテレビで
「スリラー」の映像が流れていたのだ。
500〜600人が群がって見ていた中、私もその一人だった。
ただ、私にとってスリラーの映像が初めてではなかった。
それまでは、一部の家にはすでにビデオデッキを入れました。
彼らの家に行った時、断片的に「スリラー」のビデオを見ていた。


わが家は1988年にやっとビデオデッキが買えたので、
それまではもっぱら転々とデッキのある人の家を回って
見ていた。VHSのテープだった。だいたいビデオを見始めると、
その家の親たちに嫌われ、すぐに追い出されてしまったが…


一方、数多くの中国人、とりわけ後にロッカーやミュージシャンとして
成長した人たちにとって、
農業展覧館の映像が初めて見たマイケルの歌に違わなかった。


後にMTVのスタートだと言われた短編に
確か250万ドルの資金が投入されたようだ。
当時は1ドル8元で、中国人の平均月給は200元の時代だった。
映像文化にまだ馴染みが薄かった中国人にとっては、
それほど巨額な資金を7分ほどの短編に投入したことは、
想像を遥かに超えたことだった。


しかも、その映像の内容もショッキングなことだった。
モンタージュの手法をたくさん用いて、当時、
中国で放映していた一般の映画よりもインパクトの強い映像だった。
若者の反抗心や自我の芽生えを良く表した映像だった。
色づきのコンタクトレンズで瞳の色を変えること、
見る見る恐ろしい怪獣に変身すること、そして、
獰猛で汚そうで、醜そうな幽霊たち。
どれもその後の現代人の美学センスに長く影響を与えていたものとなった。
それに、短編の中のダンスの見事なこと。
あれだけ大勢の人が足並みをそろえて踊るダンスのシーンは、
中国の流行歌の作り手と聞き手たちをびっくり仰天させた。


色んな意味で、当時の最先端の文化を彼を通して触れ合うことができた。
いま、見なおすと、それほどショッキングな映像でもないが、
当時では、そのショックは言葉で言い表せないものだった。


◆音楽を産業にした人◆
マイケルさんは一人で音楽を作っていなかったと思う。
彼をささえている優れたチームがいたと思う。
彼らは地球上の数億人をも巻き込んで影響力を及ぼした
巨大な音楽産業を仕上げた。
アメリカの工業製品と同じ扱いで、優れた音楽製品を世に送り出した。
それまでの中国には、そうした発想がもうとうなかった。
当時の中国の音楽はまた製品化に適しなかったものであった。


携帯もネットもDVDもなかった時代で、
テレビやラジオの情報量も限られたもので、何も見たことなく、
何も体験したことがなく、とにかく情報に飢えていた中国だった。
そんな時代を背景、あの時代の最高峰を代表する
最も優れたエンタメ文化を見せてくれた帝王だった。
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ジョウさんは連日、オフィスで、翻訳の暇になると、
マイケルの歌を聞いたり、MTVを見たり、
歌詞を研究したりしている。
そして、誰かがマイケル・ジャクソンと言うと、
ただちに興奮して立ち上がり、論評を始める。
彼のマイケルを偲ぶ気持ちは当分まだ続くそうだ。


マイケル・ジャクソンの思い出」を百人に聞けば、
百通りの語り方が出てくるだろう。
改革開放後、中国社会に
閉鎖の時代が長かった中国人にとって、
マイケル・ジャクソンこそ世界中の人とほぼ同時に聞き、
同時に感動し、同時に彼にまつわる思い出を形成した
初の外国人ミュージシャンでもあった。


世界への道はまだ遠いが、「四つの現代化」という夢がもし実現できれば、
その後の世界はどうなっていきそうなのか、
ジャクソンはその強い、激しいリズムとともに、中国人を強く、激しくBeatした。