「精彩」北京来客 森下雄一郎さんの「夢」話

 北京で暮す良さの一つは、個性的で面白い人達にたくさん邂逅できることです。昨日も複数の友人や同僚から連絡が入り、「ぜひ会ってほしい人」と紹介された大阪からの客がいました。
 紹介されたのは、NBA入りを目指すアジア人として頑張り、2009年までアメリカのプロバスケで選手をしていた森下雄一郎さんです。森下さんは、今回は初めての訪中のようですが、昨年、プロを引退後に立ち上げた「SEND to 2050」プロジェクト(中学生向けの作文コンクールや未来づくりを考える「子どもサミット」の開催など)で訪中したようです。

■「SEND to 2050」プロジェクトの詳細は↓
  http://www.arukuman.com/sendto2050/
■ 昨年度の活動内容:http://www.send-to2050.jp/ 
 さて、待ち合わせのホテルのロビーに来ました。と、あれあれ?数日前の「梁思成記念の会」で会ったばかりの歴史学者・ANAMI女史がとことこと外から歩いてきました。同じくこのホテルに泊まっているようです。ANAMIさんは、あの後、個人写真展のため西安に行っていたことは聞いていましたが、また北京に戻ってきたとは、しかも、こんなところでまたも偶然に会えるとは、びっくりしてしまいました。
 おしゃべりしている間、エレベーターの扉が開き、ポニーテールの日本人のお兄さんが出てきました。TシャツにはHPで見ていた模様が印刷されてあり、直ちに森下さんだと分かりました。
 数分ほど三人でおしゃべりすることになり、「『SEND to 2050』はどんな意味ですか」とANAMIさんが質問しました。
 「今の中学生は40年後にそれぞれの国の指導者になります。自分たちの地域や国のことだけでなく、世界の未来をどうしていきたいかを同時に考える中学生が増えてほしい。このPJで知り合った各国の子どもたちはその国の指導者になっても、『当時交わした約束を果たそうよ』と今のうちに交流を深めてもらいたいのです」と森下さんが説明しました。

◆どこか「普通」ではない どこなのか… お話は、とても分かりやすい。しゃべり方も落ち着いていて、声に張りがあり、普通にきれいでした。しかし、どこか普通ではないムードが漂っていました。
 束になっている部分だけが金色に染まった髪の毛。Tシャツに短パン、そして日本風の草履。ややヒッピーに見えるかもしれません。しかし、これらはさておいて、「普通ではないな」と強く思わせたのは、漢字から英語や赤ちゃんの顔までびっしり彫られている両腕でした。それから、(こう書くのが失礼とは知りながら、)コンパクトな身長でした。163センチの私の傍に立っても、際立って高いとは思いませんでした。それに体格も別段、逞しそうにも見えませんでした。それなのに、プロのバスケットボールの選手…しかも、何故か今は世界の子どもの交流プロジェクト…

◆ありのままの自分を受け入れる 出会う瞬間から疑問の塊が膨らんでいました。
 幸い、私の根掘り葉掘りの好奇心に、森下さんはいやな顔を見せずにしゃべり続けました。素直に、誠実に回答してくれました。
 一番の「シークレット」?!は、身長のようでした。
 昔の記事には「172センチ」と書かれていましたが、「ごめんなさい。本当は169センチです。ぼくがうそをつきました」。今でこそ目を細めて笑いながら言える「真相」を明かしてくれました。
 が、すごいなと思わせたのは、「自分の身長を不満に思ったことは?」に対して、「ないです。今の自分に授けられたものをすべてを出すとしか考えていません。何でも自分をありのままに受け入れることからスタートするから」。

◆夢があれば、不思議と近づく 建設業者の一人息子。尼崎の小学校では、部活はサッカーでしたが、5年に転校した西宮の小学校にはバスケットボールの部活しかなく、それがきっかけでバスケットボールと出会い、NBA入りを目指したい夢を抱くようになりました。
 18歳でハワイに渡り、夢に向かっての第一歩を踏み出しました。しかし、それまでは県大会に出たこともなく、ゼロからのスタートでした。
 その後、NYを中心にバスケットボールに「無我夢中」の日々を送り、マイナーリーグで活躍するようになりました。そして、「2人の日本人選手の中から1人が選ばれる」というNBA入りの一歩手前まで漕ぎ着けたものの、「ぼくは選ばれませんでした」。
 「ものすごいショック」でしたが、「三日で立ち直った」。
 当初はNBAに入れなかったら、バスケットボールをやめるつもりでしたが、偶然に読んだ新聞で、「AND1 mixtapetour」に初の白人選手が採用されたニュースに触発を受け、「初採用のアジア人」を目指すことにしました。
 レンタカーを運転して、1ヶ月間、ツアーしながらチームのテストを受け、最後は試合に出させてもらい、採用が決まりました。その後4年余り、プロ選手として 「世界を舞台に」活躍ができました。
 「人生は一回なんで。夢があればそれに向かって頑張ればよい。悔いを残したくはない。夢があれば、不思議と近づく。」

◆苦しみの中の無限の「夢現 NBA入りの道もプロ選手の道も決して平坦ではない。そのつらさを一番良く銘記しているのは、両腕の刺青のようです。
 「一つ一つはみな当時の自分を励ましてくれた言葉です。自分の弱い部分の表れです。」
 一番最初の刺青は、右腕の上のところに彫られた「夢現」でした。
 燃え続けている太陽の中はバスケットボールの形となっており、その中に大きな漢字で「夢現」と書かれていました。
 自らのデザインでした。彫り師であるホストファミリーの主に技術を教えてもらい、彫ったのも自分だったと言います。
 「当時は、夢をあきらめようかと悩んでいましたが、自分に言い聞かせたい言葉を彫っていました。夢現(ゆめ)と言う言葉には、夢が実現すれば無限の可能性が広がる意味合いを込めています。」
 苦しかった自分を支えてくれていた「夢現」は現在は自らが創設した一般財団法人の名前にもなっています。 
◆「夢現 エデュテイメント」のため走り続ける 2009年に引退。それまではバスケット一筋の人生でしたが、「今はバスケットボールを目の前に転がってきも触れません」。そのわけは、今は新しい夢に燃えている最中だからです。
 12年にわたるアメリカ滞在では、文化も宗教も異なる人達と混じりあい、中には、「個人同士だとパンチですが、国同士だと爆発が起こるに違いないと思わせた場面」もあり、「無宗教の自分はいつも止め役」でした。逆にその体験で知ったのは、「文化や宗教を乗り越えたところで、仲良くすることは不可能なことではない」。現役の時から小中学校での講演会の経験も生かされ、「世界の中の自分の地域と国」を考えてもらい、子どもたちの未来づくりに場を提供する「SEND to 2050」プロジェクトが「自然と生まれてきました」。
 そのために設立した一般財団法人の名は「夢現 エデュテイメント」です。
 「子どもは自分の身近なところからしか未来が描けません。子どものうちからもっと広い世界に触れてもらい、大きな夢を持つようになってほしい。そのお手伝いをしたいと思います」。
 企業まわりから教育委員会の説得まで、走り回る日々で、「理事長は名ばかりで、自らは自分のことをランナーだと思っています」。
 スポンサーシップについて、「一社から巨額な資金を得るよりは、たくさんの会社にプロジェクトの趣旨について賛同してもらい、一緒になって取り組みたい」。
 バスケットボールで培った「無我夢中」の精神が今の夢にもしっかり受け継がれています。わずか1年で、プロジェクトの趣旨に賛同する学校が関西2府4県全域に広まり、「未来づくり」の作文コンクールに応募した生徒の数は国内で14~5万人、海外でもフィリピン、中国へと広がることができました。(ちなみに、関西全域の中学生の人数が59万人と聞いています)
 昨年につづき、今年の秋に大阪で開かれる「未来づくり アジア子どもサミット」には3カ国の子どもの代表が「20年後の地元地域」について議論することになり、5000人の中学生が来場する予定と話しました。

◆素敵な出会いは自分を磨くことから バスケットボールのほか、デザイン、音楽活動、執筆活動と手広く才能を伸ばしています。自伝『生涯野良』のタイトルには、「動かなくも進む道ではなく、人生は自分で切り開いていくもので、すべて自分次第」という気持ちが込められているといいます。
 これまで歩んできた道を「すべて出会いの中で得たもの」と振り返ります。
 「まずは自分が生き生きしていて、元気でいること。自分のライフスタイルから発する周波数が届くので、そこでめぐり合わせがあります」。
 森下さんのことを複数ルートを使って、私に紹介してくれたキーパーソンのYokoさんとの出会いも、その例の一つでした。Yokoさんは北京滞在暦があり、私も何度かお会いしたことのある素敵な女性です。
 「2ヶ月ほど前のことでした。街角でのラジオインタビュー番組で自分のことを話したら、ガラス越しに聞いていた女性が番組終了後、挨拶に来てくれました。『今度は北京ですか。友達でも紹介しましょうか』と言ってくれました。」
 なるほど。それで、初めて足を踏み入れた中国でも、10人ほど待ってくれていた友人ができたわけですね。

◆子どもたちに夢を 「自分を捨てない!」 32歳にして4人の子どもの父親である森下さん。子どもと濃厚に接するのは家の中だけでなく、小学校でも数多くの講演をしてきました。
 「夢がテーマの話が多いです」が、子どもたちから聞かれることは、マイナス的な質問も多いようです。
 「壁にぶつかる時、どうするか」、
 「夢はどうやって持てるか」、
 「自分をどうやって好きになれるか」など。
 質問に対する森下さんの回答は明るくて、明快なものでした。
 「たとえ自分に夢がなくても、恥ずかしく思うことはない。一番恥ずかしいことは、友達が自分の夢をしゃべりづらくし、人の夢を馬鹿にすることです。
夢にまだ出会っていない人には、まずは未来に希望を持つこと。何でもいい。未来に希望を持つのはただだし、自由なのです。そこに縛りをかけているのは自分であったり、組織だったりしています。
 夢をほんとに見つけ出したいなら、自分への希望を捨てないこと。自分を捨てない人に運がめぐってくる。明るく、元気に振舞える人には運がいつも付きまとっている。」
 そして、あくまでピュアな自我を保つことを訴えていました。
 「自分を好きになるには、自分にうそをつかないことからです。自分の中でうそをついた時、自分が黒くなりつつあり、夢どころじゃないからです。皆に平等にチャンスがあり、自分の考え方一つで色んなものが変わっていく。左にも右にも自分の人生が変わるから。」
 さらに、ゆくゆくの「究極」の夢もあるとこう話しました。
 「人間は最後、みな死にます。自分が死ぬ時、自分が生きていた時代より少しでも良い時代になり、それには少しでも自分が貢献できたらいいなと思います」。 
 に向かって我を曲げずに、とことこん主体性をもって追い求めていきます。心のピュアさはもちろん、感性や本能を絶対に鈍らせたりはしません。「生涯野良」の言い表そうとした意味は、もしかして、こんなところのことないのかなと勝手に自己解釈しています。だとすれば、男を上げる魅力的な精神のようにと思います。
 北京で暮らすことの良さは個性的で、精彩な人生を送っている人たちにたくさん会えることです。そんな彼らの話を聞かせてもらい、自分にも数多くの糧を得て、感動が心の中に広まります。