もう会えないイーポー、ご冥福を祈っています
「上午10時55分去了」
夜、上海の従兄からイーポーの死を告げる連絡がありました。
イーポー(享年96歳)は従兄の奥さん(義姉)の祖母の妹です。上海に住んでいましたが、南京生まれの南京育ちです。イーポーは幼くして母親を失った義姉を育てていたため、晩年は従兄夫婦一家とずっと一緒に暮らしていました。
私が会いに行く度に、たいへん喜んでくれて、昔の話をたくさん聞かせてくれました。お陰で、イーポーと私は「私の最年少の友達」と「私の最年長の友達」の仲になりました。
これまではずっとたいへん健康だったイーポー。この5月、突然腹痛に襲われ、病院に行ったら胆嚢から「ガン」が検出され、しかも、全身転移したため、手術はもうできないことが分かりました。本人には「胆嚢に炎症があり」としか知らせていなかったのですが、医者からは「もう余命はいくばくもないでしょう」と告げられました。
イーポーの容態が心配でしたが、6月末、万博見学のついでに見舞ってきた父や兄の話を聞いて、少しほっとしました。
「毎日点滴を受けてるけれど、意識ははっきりしているし、病気なのに、なかなかしっかりしてらしたよ。たくさんおしゃべりしたよ」
7月下旬、私もようやく見舞いに行くチャンスがありました。
以前より顔色が白くなり、体重も減っていました。しかし、笑顔はひとつも変わらず、声も相変わらず大きくて、記憶力も少しも衰えず、昔話に弾んでいました。
入院先の瑞金病院は万年、病床数が足りない状態のため、手術でもなく、すぐに容態が悪化するような状態でもないイーポーは正式入院の扱いにすることができず、結局、観察病室の大部屋で「観察入院」の形にならざるを得ませんでした。
周りの病床にずいぶん様々な方がいました。人の出入りが激しいため、そんなに落ち着いた雰囲気ではありません。だいたいどの人も暗そうな顔をしていましたが、イーポーだけは悲しげな表情をしていませんでした。苦痛や不便を我慢している表情は一つも見せませんでした。見舞いをほんとに喜んでくれました。
お別れの時のご挨拶、「次回は元気になって家で待ってるよ。腕を振るって、私の十八番の料理を作ってあげるからね」でした。
一抹の不安が私の頭を掠めました。イーポーの病室を離れる際、笑って手を振りながらも、涙が出そうになりました。しかし、ドアの向こう、ベッドに横になったままのイーポーは最後まで楽しそうな笑顔のまま、手を振ってくれました。
明るさ。
これがイーポーの長寿の秘訣だったに違いありません。いつもしゃべり出すと、笑い声が絶えません。おかしいと思うことがあると、隠さず声に出して、そして笑っていました。
出身は南京で、実家はとても栄えていた緞子商人でした。しかし、戦乱で家業が滅び、日本軍の侵攻を逃れるため、一家で緞子を天秤棒に担いで、南方中国を一週できるほど逃げ惑った体験もしました。それも冒険物語のように笑いながら語れるとは。新中国後は小学校の教師になり、政治運動で批判もされましたが、タフに乗り越えました。語りつくせない人生の思い出の中から、いつも口癖にしている言葉は、「楽しい思い出しか思い出さないこと」です。
告別式は金曜日午前。北京からご冥福を祈っております。