私の原体験:中国人の信仰生活〜1970年代後半・安徽省農村の例〜

 この頃、知人たちと信仰心についてたまに話し合います。きっかけは、大学で聴講している「環境保全と持続可能な発展」という授業でした。担当の原剛教授は環境を人間の暮らしや文化そのものと捉え、数量的な分析よりも、環境思想、倫理に焦点をしぼり、文化論を交えて講義をしてくださり、私の大好きな授業の一つです。
 「外国人は一度は京都や奈良に行ってください。日本の伝統文化にこそ、日本人の環境思想の根源が秘められている」。原先生のよく口にする言葉です。興味深いことに、環境の視点から見た日本の信仰には、中国と共通した特色があることも感じました。
 一方、授業ではない別の席で、「日本人の神道信仰は、中国人にはなかなか分かりにくいだろう。中国人にとって、『神』とは何か?」と聞かれたことがあります。究極のところ、「中国人も信仰心があるのか」というご質問でした。結論から言いますと、中国人も宗教信仰の有無や流派によって、それぞれ異なる答えになるかと思います。しかし、中国人の行動を支える思想の底流に、やはり長い歴史の中で積み重ねてきた信仰生活が無意識に影響を及ぼしていると思います。
中国人の信仰生活の一例として、私のこども時代の原体験をご紹介しましょう。


■自己紹介
 1970年代前半、私は中国中部の安徽省の、稲作を主とする農村で生まれました。周りはほとんど漢族でした(数キロ外の「鎮」に、回族が一世帯だけ住んでいた)。祖父母は農業を営み、両親は学校教育を受けるチャンスがあったため、村から遠く離れた所で、農業以外の職につき、私と兄の世話を祖父母に委ねました。
 私の体験は、決してすべての中国人を代表することができません。しかし、決して特殊なケースでもないように思います。以下の話は、あくまで、中国中南部の漢族居住地の農村のケースとして、お聞きいただければ幸いです。


■村の祠
私の村は長江の北へ約50キロの丘陵地帯にあります。当時、出稼ぎはまったくなく、村共同体が健在でした。
部落は約10世帯からなっており、全員「呉」と名乗っていました(注:「呉」は私の母の苗字。父は8人兄弟の三男。結婚後、婿入りに近い形で母の家に入った)。村中の人は同じ先祖(「老祖宗」)の子孫なので、共通の「祠堂」(村の方言では、「大堂心」という)を持っていました。村の「祠堂」は独立した広い家で、牌楼のような玄関が印象に残っています。玄関と向かい合わせの壁の上の部分に、神棚のような板が置かれていて、「位牌」がたくさん祭られていました。
また、村所有の臼などの農具も置かれていて、唐辛子を挽いてラージャオジャンを作る時や、刈入の際、村人がよく集まって、助け合いながら、共同作業をしていたことを覚えています。
村の各世帯は、近かれ遠かれ、血縁のつながりがあるので、呼び名をたいへん重視していました。ひいおばあちゃん、二番目のおばちゃん、三番目の従弟おばちゃん、という感じで、互いに厳しい「排行」、「輩分」(家系図での位置)で呼び合っていました。子どものしつけの第一歩は、この呼び名を覚えさせることでした。書き物になった家系図は、私は見たことがありませんが、人々の頭の中で、きっちりとした系統図があったようです。


■祖父の家の祠
一方、血縁関係の遠近に応じて、10世帯は三つの小さなグループに別れていました。「祠堂」は村全員(事実上は、一番直系の「本家」が司っていた)で祭り事をする時に使う場で、そのような行事は極たまにしか行いませんでした。一方、各グループにはそれぞれ、先祖を祭る「堂心」を持っています。
私の祖父母の家は、軒を連ねた両隣の二軒の家と一番親しい関係にあったため、いつも一つに集まって、お祭りをしていました。
私たちの「堂心」は左隣の大家族の家にありました。実際に管理するのは、その家ですが、昼間になれば、家に人さえいれば、門は必ず開いていますので、誰でも自由に出入りできます。ここにも臼や織機などの道具が置かれていて、場所は広々としていました。
私にとって、ここは鮮明な思い出のある場所です。見えない先祖を敬虔に供養する大人たちの不思議な姿もあったし、祖母たちはよくここの臼で「芝麻糊」(胡麻と軽く炒った玄米を混ぜて、挽いて粉にして食べる保存食)を作り、芳しい香りの記憶も強く残っています。また、村に旅芸人がやってきた時も、夜、皆がここに集まり、芸(小さな太鼓を叩きながら、節をつけた調子で小噺を聞かせてくれたりした)を鑑賞したりしていた場所でもあります。


■老祖宗:祖霊よ、ご加護あり!
私の「堂心」に、小さな白黒写真が一枚ありました。祖母はいつも「老祖宗(先祖)にお線香をたてるね」と言って、そばの香炉に線香を差し、火をつけました。
写真の「老祖宗」は、祖父の叔父(父親の弟)だそうです。私が生まれる前に既に亡くなっていますが、子供の頃、毎日のように、その写真と対面していたので、今でもその顔を鮮明に覚えています。
(祖父は青年時代、生計のため、一度、生まれた村を離れて、当時人口のまだ少ない長江の南側に移住して、長年職人をしていました。祖父がこの村に再び戻ってきた時は、もう10数年の月日が過ぎており、それも、叔父の息子(祖父の)が呼び寄せて、やっと実現できたことでした。そのため、従弟の家の先祖も自ずと、祖父の先祖になったのではないかと思います。)
子供の頃、「老祖宗」という呼び名にあまりにも不思議な響きがありましたので、祖母によく色んな質問をしました。
「老祖宗はどうして見えない?」とか、
「老祖宗にご飯を食べてもらっているのに、どうしてご飯は減らない?」とか。
その都度、祖母は「今のあなたはもう見えないけど、赤ちゃんなら、老祖宗が良く見えるよ。でも、見えなくても、あなただって、しっかり老祖宗に守られているんだよ」、と答えてくれたように覚えています。


■祠堂での先祖の供養
祠堂での先祖供養は、大きく二通りに分けられます。
一番盛大に供養するのは、旧暦の大晦日の夜です。女たちは大ご馳走を作っては祠堂の机に並べ、山盛りのご飯と箸をそろえ、お猪口に白酒を注いで、準備万端となります(ご飯茶碗もお猪口も、いつも三つだったと記憶している)。全員がそろった時、爆竹を上げ、紙銭を燃やし、年齢順に家族全員が磕头(額を地につけて礼拝する)します。大人たちは磕头しながら、「家族中、無病息災で一年間過ごせるように」と文句を唱えます。子供たちが磕头の時も、文句を言えるように祖父母が一人ずつ指導して、うまく言えた子に惜しまず褒め言葉をたくさん送りました。ただし、私の家では、父は徹底的な唯物論者なので、毎回、理由を見つけて、この場にいないようにしていました。
一方、日ごろの供養を、毎月(旧暦)の一日と十五日に行っていました。「上斎飯」と言います。名前通り、おかずはなく、ただ、山盛りのご飯を3杯、祖霊の写真の前に並べておくだけです。
先祖に「斎飯」を召し上がっていただくには、まず、線香を焚いて、それから、写真の傍に置かれている謦(けい)を打ち鳴らします。謦の音で、先祖が「斎飯」が供えられたことに気づき、食べに帰って来ると皆、信じていました。


■葬祭
 冠婚葬祭の中で、最も宗教と密接にかかわるものは、葬祭でした。村で人が死んだ時、丁重に弔います。お通夜は各自の家で行い、玄関の扉をはずして、死んだ人を乗せ、弔問客が自由に訪れていました。その度、家の人が大きい声で泣きくずれ、ひざを低くして、弔問客に挨拶をしていました。
死人の顔は白い布で覆い、枕元には米をいっぱい入れた茶碗を置き、その中に卵も載せ、線香をたきます。ほとんどの家は土葬でした(寺の僧侶は火葬)。葬る前日、道士に来てもらい、徹夜で楽器を鳴らしたり、呪文を唱えたり、お払いをしてもらいます。一説によれば、12歳未満の子どもなら、法事を行っている最中の道士の道服の裾をめくって中を覗けば、鬼たちが踊っている風景が見えると言われています。残念ながら、私はついに12歳までに、実験するチャンスに恵まれませんでした。
私が10歳まで過ごしたこの村では、何度も葬儀が行われました。お年寄りの老衰の死もあり、家庭のいざこざで農薬を飲んで自殺した女性の死、ため池の近くで遊ぶ際、溺れ死にした子どもの死、などなどです。
 死人が出る度に、村中(隣の村も巻き込んで)に魂にまつわる色んな噂が飛び交います。死ぬ前の兆しにつながるもの、もしくは、黄泉の世界へ旅立つ前に、親族の夢に出て、別れを告げに来る話などなどです。その度に、重たいムードが村中を包み、夜になると、私は一人でいることが怖くなり、大人たちの傍から決して離れませんでした。
 ただし、気立ての優しい人ほど、死んだ後、村人に恐怖感を与えずにそっと旅立つと言われ、性格の悪い人ほど、恐怖感を強く感じさせると言われています。高齢で亡くなるお年寄りたちの死は「白喜事」(紅喜事とは結婚式のことを言う)と言い、祖霊になって、見守ってくれると人々は信じていました。
人の死後、「七七をする」習慣があります。つまり、七日ごとに大々的に供養をし、49日目で一区切りとなり、初めて、家の人が普段の生活に戻ることができます。「一七」をする、「二七」をする、「三七」をする、というように、それぞれの「七」で、やることの内容が少しずつ異なっていました。中には、紙や竹で作ったミニチュアの家(家具、使用人付き)を燃やす行事もあり、子供心に極めて不思議なことと思っていました。


■お墓:村の風景の一部でもあった
お墓は村はずれの森の中や、野原の小高い所にあり、また、私の通学路の一部にもありました。人家のすぐ近くにもお墓が散在していて、私の家のすぐ後ろの森にも、土饅頭が何個もありました。どれも、私が生まれた時からあるもので、すでに草が青々と茂っていたため、特に恐ろしいと思ったことはありません。
牛飼いの子どもたちは牛をお墓のエリアに入れて、草を食べさせたりもしていました。ただし、土饅頭の頂きを足で跨いだり、オシッコをしたりしては、祟りが起きると信じられていました。もちろん、墓碑でのいたずらもタブーでした。
ただし、これら村の中のお墓は、少し離れた所に住んでいる人のものが多いようです。中には、年代が古くなり、清明節(注釈:4月5日頃。中国では、この前後にお墓参りする習慣がある)になっても、祭ってもらえない墓もありましたが、ほとんどのお墓はきっちり供養されていました。祭られた後、土饅頭の頂きに、白い紙でできた細長い「紙標」が差されますので、これを目印に、後代の人がきちんと先祖供養しているかどうかが、一目瞭然です。清明節に、「老祖宗」のお墓参りをしない人は、村では非難されます。


■他の行事と信仰
 村には、他には、旧暦7月15日の「鬼節」(屋外での供養。新米で作ったお餅をこねて、「孤魂野鬼」(無縁仏)も含めて、幅広く鬼魂に供えていた)、冬至の時の「送寒衣」(なくなった人に、紙で作った衣服や紙銭を燃やす)などの行事があります。
 それから、一回だけでしたが、「灯篭流し」の行事も行われました。夏の日の夜だったと覚えています。村の池で、子どもが溺れ死にそうになったため、親は村の在家修行の尼さんに頼み、灯篭流しを行ってもらいました。折り紙でできた四角い紙の箱の中に、短い蝋燭を立て、それに火をつけて、水の中に流しました。尼さんや近くの村のお寺の和尚さん(私の村にはお寺がなかった)が楽器を鳴らして、お経を読んでいました。


<まじない>
村には、様々な呪いがありました。中には、父からは「愚かな迷信」だと叩かれたものもありました。例えば、病気の時、お寺の線香の灰をもらってきて、飲ませると病気が治るとか、もしくは、玄関の上に、「桃符」と呼ばれる呪文を道士に書いてもらうと、魔よけになるとか。または、病気が長引く時に、水の入った茶碗で、死んだ人の名前を呼びながら、お箸を立たせて、どこの「鬼」(ここの「鬼」とは、日本語の「霊」に近い意味。以下も同)の祟りで病気になったかを占うとか、私は見たことがありませんが、無くなった先祖の霊を体に取り付けて、死人と会話ができる巫女も来ていました。


<水猴子>
 村には大きさの異なる池がいくつもありました。村人は、池には「水猴子」(「水のサル」)がいると信じ込んでいます。赤い涎掛けをかけ、それを使って、様々なものに化けて、子どもを水に引っ張り込む「水の中の鬼」だそうで、溺れ死んだ子どもが水のサルに化け、自分自身が早く生まれ変わるため、代わりに誰かを水の中に引っ張らなければならない宿命的な怨霊のようです。
ただし、水サルはシルクに弱いと信じられているため、村では、赤ちゃんや小さな子の手首や足首によく細い真綿の糸をお守りとして、巻きつけていました。


<叫魂>
 「魂」は人間にとって、もっとも肝心なことだそうです。魂が全部体に収められている時、人間が元気でいられると信じられています。一方、何かで驚かされた時は、魂の一部が体から抜けてしまい、それが原因で、人間は病になると言われています。そのため、恐怖体験をした後は、「叫魂」(魂を呼び戻す)がとても大事だとされていました。
 私は5歳の時、雨に濡れて柔らかくなった池のほとりを歩いていて、うっかり足を滑らせ、池に落ちてしまった事がありました。村の一番深い池で、恐怖のあまりに、一生懸命にもがきましたが、岸から遠のく一方でした。幸い、田植えに行く隣村のおばちゃんが通りかかり、差し伸べてくれた天秤棒で救われました。
 祖母はその後、毎晩、私を連れて、「叫魂」(魂を呼び戻す)をしていました。水に落ちた時の私の綿入れを箒の先にかぶせ、池のほとりに行って、家に帰るまで、「燕子、帰れ!」と呼び続けていました。名前を呼んで、「はい」と答えることで、威嚇で抜けてしまった魂が自分の体に戻ることができると信じられています。


<菖蒲と蓬で飾る端午節>
 水際に菖蒲のたくさん生えていた池があります。初夏になると、子どもたちがよく菖蒲の葉を取り出して、菖蒲相撲をとったり、刀にして振りまわしたりして遊んでいました。私は、菖蒲の強烈な匂いが苦手でしたが、色々遊べるので、楽しみの一つでした。
端午の節句になると、祖父は野原へ行って、蓬の草を刈ってきて、菖蒲の葉と一緒に束にして、玄関の両側に逆さまに飾っていました。余分に取った蓬は、祖父が徒歩小一時間かけて市場に持っていき、売っていたこともあります。


<恐ろしい「3月3」>
 子どもの時の恐ろしい思い出は旧暦3月3日の時でした。この日になると、鬼火(人魂)が見えると言われていたからです。祖父はこれに因んで、よく皆に怪談を聞かせました。「鬼の恐ろしさは帽子にある。帽子があるから、色んなものに化けることができたのだよ」、「鬼の癪にさわるようなことさえしなければ、鬼も人間にいたずらして来ない」。


<最後の口頭伝承>
村には各種様々な言い伝えが豊富にありました。残念ながら、今の私には、どれもうろ覚えでしかありません。
「ある日、大地に突然、小さな割れ目ができました。その割れ目から、水が少しずつ噴き出してきました。水量が少しずつ増え、赤い服を着た小さな女の子が、木の盥(たらい)に乗って、地上に出てきました。その内に水が少しずつ増え、大地の割れ目も広がり、とうとう恐ろしい洪水が何もかも飲み込んでしまいました…」
祖母のよく語った恐ろしい地震や洪水に関する言い伝えでした。このほかにも、江猪(長江イルカ)の執念深い仇討ち物語りや、雨が降ると、読書の声が聞こえてくる「将軍山」(村からそう遠くない山の名前)の話、各種様々な小噺や怪談(村では、「談文」という)などがあります。学校教育が浸透していなかった頃、各種様々な「談文」は人々の自然、地理、歴史、倫理教材の役割を果たしていました。
 

■姑奶奶:敬虔な仏教徒
 話を少し戻します。灯篭流しの行事を司っていた尼さんは、当時、在家で修行していた隣の家のおばさんでした。祖父の従弟姐に相当し、私は「姑奶奶」と呼んでいました。姑奶奶はまだ幼い頃に、両親に「童養媳」(将来の結婚を約束して、子どもの時から引き取られた女の子。相手先の家で、よく虐待される対象になる)に出されたが、虐待に耐えず、実家に戻り、出家を志願し、一度尼寺に入りましたが、文革の際、寺が壊され、無理に還俗させられました。姑奶奶は家に戻ったが、菜食主義者で通していました(注:中国では、僧侶は肉を食べてはいけない)。
 「善には善の報いがあり、悪には悪の報いがある。わが子よ、他人に優しく接さなくちゃいけないのよ」。「良い人が生まれ変わった時はまた人間でいられるが、悪事をした人は、来生、動物になったりする」。姑奶奶がよく子どもたちに向かって、こう説いていました。
 文革後、宗教信仰の自由が戻り、姑奶奶は1980年代半ば、近くの村の尼寺に入り、本格的に出家をし、その後方丈になりました。現在は90歳を越えています。失明していますが、体は健康のようです。
 姑奶奶は在家の時から、熱心な仏教徒で、いつもお寺のお手伝いをしていました。鬼節や冬至になると、先祖供養用の紙の衣服や靴を折ったりしていました。私や近くの女の子たちも面白半分にお手伝いをした覚えがあります。また、紙銭やお経を印刷するための木版を家に持ち込んで、せっせと作業をしていました。
 

■自然を見る目:素朴な環境保護
 ●水
村の池はたいへん合理的に役割分担ができていました。丘にある池は飲み水専用で、ほかには洗濯用、魚養殖用、おまるを洗浄用、水牛などの家畜用に別れていました。池の使い分けは村の不文律で、誰も規則を破る人はいませんでした。村人は水の無駄遣いをたいへん嫌い、水を極めて大事に使っていました。水道はなく、飲み水はすべて人間がバケツを持って、飲み水の池へ汲みに行かなければなりません。家々の台所には大きな水がめが埋めてあります。


 ●穀物
村では、食べ物を粗末にすることが一番の忌みでした。米粒が地面に落ちたら、必ずそれを拾います。米粒を足で踏んではならないとされたからです。「食べ物を疎かにする人は、いつか雷に襲われて死んでしまう」とよく聞かされました。同じように、いくらお腹が空いていても、決して、お箸でお茶碗を叩いたりしてはならない。食べ物に不敬なことをしてはいけないからです。


●蛇
動物にまつわるイメージの中では、蛇が一番恐ろしく、神秘的な存在でした。村人にとって、蛇はタブーの多い存在でした。例え、畦道の道端で蛇の死体を見ても、決して、指で指してはならないと言われています。「蛇を指で指したりすると、その指が腫れて腐ってしまう」からです。また、もし家の中で蛇を見た場合、「財運を運んでくる」ものと信じられているため、決して濫りに捕獲してはならなかったです。
今、振り返って考えてみれば、蛇は植物連鎖の中で、比較的上位にある動物で、濫りに殺すと、大自然のバランスが壊れかねません。畏敬の目で見て、指一本だって触れてはならないということにしておけば、結果的に、蛇を守り、生態圏を守ることになります。
理屈では解釈のつかない村の信仰には、無意識的に自然保護につながっているものもあるようです。


■まとめ
1970年代後半の安徽省南部の農村では、信教に対する制限が緩和されつつありました。それまで、「封建迷信」とされていた宗教信仰が、人々の生活の中に少しずつ戻り、寺が修復されたり、「灯篭流し」のような行事が行われたりして、信教の自由が徐々に戻ってきました。
一方、政策の変化に左右されることなく、人々の心の中では、信仰心が一日たりとも途絶えた日はなかったと思います。村人の心の世界に、鬼、魂、菩薩、祖霊(「老祖宗」)が常に混生しており、村の倫理規範の一部に溶け込んでいました。
私の場合、片方は唯物論者の父、片方は鬼神に強い畏敬の念を抱く祖父母や母に育てられてきました。私は、基本的には無神論者ですが、一方では、祖父母や姑奶奶の敬虔さも心から理解することができます。そのため、「郷に入れば郷に従え」で、日本の神社に行くと、手を合わせるまねをすることに抵抗感はありません。


改革開放の後、中国では、都市化が急速に進められてきました。しかし、今でも、大部分の人のルーツが村落社会にある事実は変えることができません。都会生まれの私の同年代の人たちも、農村に暮らしていた祖父母たちの影響、多少なりとも、村落社会の信仰について、話を聞かされていることでしょう。
仏教、道教シャーマニズムの入り混じった信仰構造は、今でも無意識に中国人の行動に影響を与えているに違いありません。(2006年6月16日)