つばめの日本飛行記【06年夏・東北の旅】

大館に行ってみたい!

大館市に行きたいなあ」。ハチ公前で待ち合わせをした時、友達にポツリと言いました。ベンチに腰をかけていた友人は、「大館市なら、ここにあるよ」と植え込みに潜んでいた小さな看板を指した。まさか!こうやって、日本語を習い始めた時の教科書に登場していた忠犬ハチ公が、大館の生まれだったことを初めて知った。



【慰霊式が市の定例行事】

去年の夏、たまたま北京で行われた花岡事件60周年集会を取材しました。大館市郊外で行われた慰霊式の模様が、会場の大画面にインターネット中継を通して放映され、ここ20年来、大館市主催の慰霊式が毎年行われていることを初めて知りました。どんなところなのか、是非行ってみたいと、その時心に決めました。
  

*What is「花岡事件」?
1945年6月30日夜、花岡に強制連行された中国人が過酷な労働と虐待に耐えられず決起し、後に鎮圧された事件。中国から花岡の地へ、計986人が連行され、内、418人が虐殺された。戦後、明らかにされた日本外務省の統計資料によれば、戦時中、中国から4万人余りの中国人が日本に強制連行され、全国135ヶ所の作業場で強制労働を強いられた。この内、7000人余りが日本で命を失い、遺骨となり中国に返還され、残りの人は戦後、中国に帰国した。

聞くところ、強制労働で殉難した中国人のための慰霊式は、他の地方でも行われています。しかし、市主催の定例行事として毎年開催しているのは、現在、大館市のみだそうです。
花岡事件の戦後処理をめぐり、生存者11人の提訴による花岡裁判は、2000年11月、強制連行された986人全員を掬い上げた形で和解が成立しました。しかし、被害者側による「記念館建設」の要求は和解で満たされていません。これを受け、地元市民による花岡平和記念館を建設する運動が起こり、02年6月から、「NPO花岡平和記念会」として発足。毎年の慰霊式に、生存者や遺族たちが現地を訪れ、大館市民と直接交流するイベントを行ってきました。

中日往来の来し方を振り返れば、「花岡事件」に象徴された歴史は、生存者と家族らの心身の傷と悲哀を伴って、今を生きる私たちの眼前に突きつけられています。大館市は行政も市民も、いずれも、被害者と真摯に向き合っているところが素晴らしいと思います。


【おじいちゃん&おばあちゃんたちの中国】
大館随一の名所・「鳥潟会館」の前で、私は偶然に二人のお年寄りに出会いました。最初は、空っぽの乳母車を押しながら、昼食前の散歩をしていた、腰の曲がった87歳のおばあちゃん。
「こんにちは!」と声をかけると、おばあちゃんは腰が曲がったまま、頭をもたげて、にっこりと笑顔を綻ばせ、「あんた、どこからの観光客?」と聞いてきました。おばあちゃんの言葉は、まるで柳田国男の世界。タイムスリップした思いで、突然頭に浮かんだのは、自分の通っている民話朗読教室の稽古でした。なるほど、これぞ本源!と頷いたのでした。
「北京です」と答えると、おばあちゃんは、聞き慣れない音の組み合わせに、「へえー??」と意味が分からなかったようです。「中国の北京です」と付け加えると、「へえー!」と、それは、それは驚いた表情でした。
 
おばあちゃんの方言が濃厚で、私は完全に聞き取れないことが悔しい。ただ、会館対面の家に大家族で暮らし、1989年、家族全員で中国旅行をしたことがあること、そして、「今は日中友好というからね」と繰り返して言っていたことだけが、しっかり聞き取れました。
「おばあちゃんの写真撮ってもいい?」と聞くと、「はいよ〜!はいよ〜」、とまたもや柳田国男の世界になりました。

二人目は、昼食後、新鮮な空気を吸いに出てきたのだろうか、その辺の石碑の階段に腰掛けていた95歳の老人でした。
元々は下駄屋の息子だったが、「不幸ながら、兵隊で香港に行った」。その時の怪我で、「今も腰が痛い」。広州と香港で10年間過ごし、敗戦は香港で迎えたそうです。おじいちゃんが、震えた声で繰り返して言ったことが印象に残っています。「行きたくはなかった。やむを得なかった」、「政府の命令で、強制的に行かされた」。
「出発ですよ」との催促を受け、もっと時間があればと悔しい気持ちを抑え、おじいちゃんにさよならしました。車に乗った後も、おじいちゃんはずっと視線で追っかけてくれて、「気をつけてな!また来てね」と大きい声を出して手を振ってくれました。
お二人とは、いずれも数分間しか話ができず、頗る物足りなく思っています。しかし、何故か「中国人」と聞いたとたんの二人の表情に共通点があるように感じました。ひどく驚いたような、安心したような、思い出したくない何かを思い出し、後ろめたく思ったような、そんな表情を見て取ったからです。うまく表現はできませんが、何となく私にはそういう気配が伝わってきました。

お二人の年配者にとって私は、穏やかな生活の中で、突然遭遇した中国人です。「中国」と聞いた瞬間に、頭の中を何が掠めたのでしょうか。おじいちゃんは「香港は良いところ」とぼやかしましたが、今も痛い腰を揉んで、本当は何を語りたかったでしょうか。いつか、またじっくり話しを伺うチャンスがあること、そして、おじいちゃん、おばあちゃんの長生きを祈っています。span>


【心和むひと時】
 
今年の慰霊式には、中国から生存者と遺族ら5人が来日しました。82歳の生存者(王さん)のほか、70代(胡さん)、50代、40代、30代の遺族たちでした。
 慰霊式の参列、証言、フィールドワークなど、痛ましい歴史と向き合う時間が多かったこともあり、皆さんは厳しい表情をしている時が多かったです。そんな中で、全員が一斉に素敵な笑顔を綻ばせたひと時があり、その感動は私は今も覚えています。
  (写真:生存者 王世清さん、83歳)
慰霊式の行われた日の夜、NPO花岡平和記念会主催で歓迎会が行われ、東京から応援に駆けつけた在日韓国人シンガーソングライター・李政美さんが歌を歌い始めました。(李さんの歌は、私は花岡で初めて聞いた。仙女のような麗しい声の持ち主で、ギター一本の伴奏で自然や風景、子守歌、祈りを語るように歌い聞かせ、独自の歌の世界に人を引きこむ。たまに、民族楽器チャンゴを叩きながら歌う民謡も素晴らしい。)
 アンコールが続き、李さんはついに一部、中国語訳詞もある歌を歌い始めました。そして、ステージを降りて、満面の笑みで王さんと胡さんの手をとり、リズムに乗せて、社交ダンスを踊り始めました。踊るというよりも、おじいさんたちを踊らせたと言ったほうがふさわしい。あまり突然だったこともあり、王さんも胡さんも緊張した面持ちのままでした。
 

しかし、李さんは笑顔で歌い続け、踊り続けました。皆も一緒に輪になり踊り始めました。すっかり盛り上がった雰囲気の中で、王さんも胡さんもいつの間にか、緊張が解け、リラックスした表情になり、一緒に拍手したり、リズムに乗ろうとしていました。国籍も年齢も身分も忘れ、皆がただ心を一つにして、思いっきり、座の雰囲気を楽しんだ心和むひと時でした。
 李さんは笑顔と歌声、そして、差し伸べた両手で魔法を施しました。人間には共通した何かがある。彼女はきっとそう信じ続けて、魔法を効果的に使ったに違いありません。そんな彼女の思いが、中国人のおじいさんたちにしっかり届き、彼らの顔を微笑えませ、目をきらきら光らせました。私が大館で体験した、最もハーモニーの美しい楽章でした。