大きな歴史を生きる小さな個人 

日本人おばあちゃんの中国人孫
〜張恩龍さんとその祖母・浅田智恵さん〜

 
単純にびっくりしたこともあります。今回、大館市での遺族との話の中で、想像だにしなかった「花岡」のもう一つの側面、それも極めて特殊な例があったことを知りました。大きな歴史の流れに翻弄され、一個人の人生の小ささをただ嘆くばかりです。そして、「生きる」ことの意味とは何か、改めて考えさせられました。
 花岡に強制連行された約千名の中国人の内、569人が生きて帰国できました。その内の12人が横浜で開かれたBC級戦犯裁判で証人出廷のため、1948年まで日本に滞在。この内、日本人女性と結婚して帰国した人が3人いたとのことです。張金亭さん(1911〜1981)がその中の一人です。以下は、張金亭さんの孫・張恩龍さん(30歳、河南省安陽市在住)とその日本人祖母・浅田智恵さん(1924〜2004)の話です。

【祖父母のこと】

■恩龍さんの祖父と祖母

張金亭さんは1911年、河南省社旗県の農家の生まれ。子どもの頃から体格が良く、義理堅く、義侠心に富んだ人であった。ある時、小作農を虐待した地主を殴り殺したため、村から脱走し、国民党の軍隊に入隊した。軍隊で読み書きの教育を受け、後に特務連隊の小隊長にまで昇進。1944年、日本軍との戦いで包囲に遭い、洛陽で捕虜になり、その後、石家荘、青島経由で花岡に連行された。
 ちなみに、花岡には1944年から、三回に分けて、計986人の中国人が連行されていた。これらの人々には国民党軍隊の捕虜、共産党地下組織のメンバー、一般民衆がいて、3つの中隊に編成管理されていた。張金亭さんは第一陣で送り込まれ、第一中隊長だった。蜂起失敗後、晒しの刑に罰せられ、秋田地方裁判所で首謀者の一人として有罪判決が下された。
 戦後、BC級戦犯法廷で証言するため、1948年まで日本に滞在。その傍ら、当時の国民党政権の駐日本大使館で警備の仕事に当たり、知人の計らいで、日本人女性浅田智恵さんと結婚した。
 1948年、中国に帰国後、引き続き国民党軍に戻ったが、その所属部隊は後に共産党側に転向した。新中国建国後に兵役を退き、生まれ故郷に戻り、農業に従事していた。1981年、食道ガンのため逝去。浅田さんとの間に、三男一女がいる。

 一方、浅田智恵さんは1924年東京・浅草の生まれ。智恵さんの祖父は農林水産相を務めたことがあり、父親はミシガン大学留学経験者であるらしい。本人は高等女学校の出で、英語が堪能で、ギターを弾きながら歌を歌うことが好きだったらしい。
 1948年、夫と一緒に中国へ渡った後、1972年まで河南省農村で暮らし、河南訛りの中国語が話せるようになっていた。中日国交正常化した1972年、智恵さんは中国政府の日僑優遇政策により都市戸籍を獲得して、社旗県の紡績工場で働くチャンスに恵まれた。その後、一家を連れて、町部に引っ越した。智恵さんは紡織工場で定年まで勤務し、退職後、毎月105元の年金が支給されていた。
智恵さんの両親は1960年に死去。本人は1981年に、ただ一度帰省したことがある。家を出発する直前、夫の金亭さんにガンが検出された。大変面倒な手続きを経てようやく成功した帰省は、夫の強い意思で計画通りに実施され、智恵さんは予定通り、長男(恩龍さんの父親)を連れて、日本に三ヶ月間滞在した。しかし、その間に夫は死亡。

智恵さんには兄が一人いて、帰省前まではよく文通し、日本語の書籍などを送ってもらったりしていたが、帰省後、何故だか二人の文通がそれっきり途絶えてしまった。恩龍さんは、「祖母の兄は自分の子供の世帯と一緒に暮らしていることもあって」と言う。
 夫の死後、智恵さんは長男夫婦と近い所で、一人暮らしをしていた。恩龍さんの話では、祖母は村で暮らしていた頃から、めったに外部と交流をせず、他人に迷惑をかけることは極力避けていた。ただ、ひたすら部屋の中に閉じこもって、静かに読書にふけっていた。晩年、日本語を習得した恩龍さんとの文通が、何よりの心の慰めだったようだ。2004年、心臓病発作で死去する。


■思い出の中の祖父母

張恩龍さんが5歳の時、祖父が亡くなった。祖父は180センチの長身で、『三国演義』が好きで、よくその物語を聞かせてくれ、また、よく恩龍さんを膝に座らせ、一緒に遊んでくれた。「両手の親指の根元の部分に、たいへん深い傷が残っていた。10本指の先にも、尖ったもので刺された跡が鮮明に残っていた」。これが、恩龍さんの忘れられない祖父の思い出だ。
聞くところでは、祖父は蜂起で捕まった後、両手を縛り、つるし上げるという拷問を受け、10本指に悉く細い竹串で刺された、という酷刑を受けた。軍人出の祖父は、一生、軍隊で培った厳しい性格を保っていたらしい。短気で、怒りっぽく、ややもすれば、祖母に厳しく当たっていたようだった。しかし、家族の中で、祖父は唯一日本語が話せる人で、祖母とはよく日本語で話していたようだ。

一方、祖母は河南訛りの中国語が話せたが、中国人のようにしゃべれるようにはならなかった。容姿端正な方で、身なりのことをいつも気にし、部屋の中をいつも清潔に掃除した。洋服の枚数は多くはなかったが、どれも念入りに選んだものだった。祖母が和服を持っていた記憶はない。
恩龍さんの両親はたいへん親孝行で、祖父母とは別々に暮らしているが、家でご馳走を作ると、お椀に入れて、恩龍さんに届けさせた。その度に、配達役の恩龍は必ずお小遣いをもらった。「とにかく、他人の恩恵を一方的に蒙りたくない性格だった。たとえ、孫である私に対しても」と、振り返る。智恵さんは餃子なども作っていたが、その作った餃子が「とても小さかった」と恩龍さんは言う。
文革の頃、智恵さんは迫害を受けることはなかった。しかし、村人の蔑視を受け、「小日本」と呼ばれたりしていた。しかし、河南省の農村地帯でひたすら、ひっそり暮らしていた智恵さんには、たいへん忘れられない思い出もあった。長女(恩龍さんの父の妹)を孕んでいた頃、在中国の日本人として、南京に呼ばれたことがあるらしい。その時、大文豪の氷心さんと会い、これから生まれてくる赤ちゃんに「氷芳」と名前をつけてもらうことができた。このような特別な待遇を受けたのは、当時の周恩来総理の特別な配慮があり、きっかけは、ラストエンペラー・溥儀の弟である溥傑の妻が日本人だったからだと言われている。



■解け合う:たっちゃんとおばあちゃん

恩龍さんは小学校3年の時、5年生の子から「ハイブリッド稲」と呼ばれ、それがきっかけで、大喧嘩したことがある。そのため、皆のいる前で、祖母のことに触れられたくなかった。一時期、祖母と話したくなく思う時もあった。しかし、大人になった後、あるきっかけで、祖母とかつてないほど親しくなり、祖母の気持ちの一番良き理解者になった。晩年の智恵さんは、そんな孫との交流により、どれだけ心が慰められたか、容易に想像できる。
きっかけは恩龍さんの訪日研修だった。1999年、彼は勤務先の工場の許可を得て、研修生として訪日。その後2003年まで、静岡県富士市で3年間の研修生活を送っていた。
「一人ぼっちの外国生活。工場と寮の間で往復するだけの暮らし。寂しくてならなかった。」そんな中、ふっといつも部屋の中に閉じこもって読書する祖母のことを思い出した。「その時、やっと祖母の気持ちが理解できた気がした」。
とりあえず、祖母に日本語で近況報告の手紙を出した。日本語は夜遅くまで残業をして寮に戻った後、テレビの語学講座で独学していたものだった。すぐにたいへん綺麗な字体で祖母から返信が来て、彼女の嬉しさが伝わってきた手紙だった。冒頭には、「たっちゃん」で始まっている。祖母は恩龍さんの「龍」の字をとり、日本語風にそう読んでいたのである。そうやって、恩龍さんは祖母と文通を始めた。祖母との距離もそれまでにないほど近くなり、今まで知らなかったことをたくさん聞かせてもらったという。
「祖母の祖父は農林水産相だったこと、祖母の父親はミシガン大学で留学していたこと、そして、天皇家の花は菊で、桜ではないこと。祖母は自分の祖父が亡くなった時、天皇から菊の花でできた花輪が贈られ、新聞でも写真入りで掲載されていたと言っていた。それから、祖母の家には、天皇から授かった柔らかい布団があることも。天皇が一晩寝た後、布団を臣下に授けていた布団らしい。」
丸3年間、一度も帰省することもできず、ただ単純労働を繰り返し、少しでも多くの残業代を稼ごうと頑張っていた。決して楽ではなかった日本での研修生活。祖母との文通は同じく、恩龍さんにとっても心の慰めであった。「ばあちゃん、私はばあちゃんの孫ですが、どうか息子と思ってください」と恩龍さんは手紙に書いた。

日本での研修生活を終え、郷里に戻る前、恩龍さんは祖母に「好きな食べ物を教えてください」と手紙を出した。祖母に思いっきり懐かしい日本の味を食べてもらいたかったのだ。
「梅干が一番の大好物で、それからカレーライス、のり、鰹節、マヨネーズも。のりのサイズには特にうるさかった。細くちぎれたものではなく、まとまったサイズのものを注文した。巻き寿司を作りたかったのだ。」
中には、長持ちできない食べ物もある。しかし、河南省の恩龍さんの家も祖母の家にも、冷蔵庫はない。とりあえず、冷蔵庫を買う金を先に送金した。それから、スーパーのバーゲン情報を集め、バーゲンがある度に、少しずつ買い貯めておいた。
こうして、恩龍さんは山のような食料を抱えて帰国した。初めて日本語で会話できた祖母の目は、「優しくなっていることが分かった」。
智恵さんは親孝行の子どもたちに恵まれ、その後も、ずっと健康に暮らしていたが、2004年、心臓病の発作で突然逝去した。あっという間の出来事だったため、恩龍さんは祖母の最期を看取れなかった。残念なことだったが、「他人に迷惑をかけたくない祖母らしい死に方だったかもしれない」と言う。(つづく)