つばめ便り7月号③ 

張恩龍さんの日本と中国
〜 一中国人の喜怒哀楽 〜

 張恩龍さん、1976年河南省の敬虔なクリスチャンの家に生まれる。祖父は元国民党軍中隊長、「花岡事件」の生存者。祖母は浅草生まれの日本人。本人は2000年〜03年まで、静岡県富士市で研修生として滞在。現在、知人の立ち上げた労務公司でビジネスパートナーとして参入し、日本や韓国向けに研修生を送り出す仕事をしている。今、鄭州で妻と4ヶ月になる娘と3人暮らし。
日本人を祖母に生まれた彼にとって、「日本」がどのようなを意義を持っている存在なのか。彼の人生を支える芯となるものとは何か。30歳の張恩龍さんの人生を興味深く伺った。

 張さんの涙 
 張さんとは秋田県大館市でお会いした。花岡事件61周年慰霊式のため、張さんは遺族代表として招かれ、大館市にやってきた。私が彼の生い立ちに興味を持ち始めたのは、遺族代表の中で、際立っていた彼の若さ、そして、日本語が話せることだけでなく、大館で関係者との内輪の食事会で、彼が涙を流しながら、一生懸命何かを訴えようとした姿を遠目で見たからである。
その時、彼が話をしていた相手は、花岡訴訟を長年サポートしてくれた日本在住の華僑と大館の労働組合関係者だった。何かをめぐり意見が対立し、張さんは一生懸命何かを弁明しようとしていたようだった。
 後から知ったことだが、彼らの議題は「研修生派遣制度」と呼ばれる中国人労働者の日本派遣の是非についてだった。日本側は過去の中国人強制労働の記憶から、現在、派遣元と受入仲介機構の双方から給料がピンはねされていることに触れ、ひどく怒りを感じていた。それに対し、張さんは自分自身の体験に基づき、「物事には良い面と悪い面がある。両者を比べてみれば、たとえ良い面が1%しか高くなくても、やはりやってみる価値があるのだ」という信念を堅持していた。相手の勢いに押されて、外国語である日本語を使って説明しなければならない張さん。どうしても自分の考えを相手に理解してもらえないもどかしさに、悔しい思いがこみ上げて思わず涙していたようだった。

 「大学に行きたかった」、現状打破に研修生募集に応募 
 日本研修に行く前、張さんは南陽市某機械工場の労働者だった。入社3年目の1999年のある日、工場に「日本への労務輸出、労働者募集」のチラシが張られた。当時、南陽では、労務輸出はまだ馴染みが薄く、「何も遠い外国にまで行かなくても、眼前の安定した職を守りたい」と思う人のほうが多かったようだ。工場内で応募者が少なかったため、張さんの申請は直ちに許可された。最終的に、工場以外の応募者も含め、合わせて120人が面接を受けたが、張さんを含めた20人が研修生派遣に決定した。
ところで、彼が躊躇せず募集に応じたのは、ある強い思いに絡まれたからである。現状を打破したい思いだった。
その6年前、彼は中学を卒業した。高校入試では優秀な成績を挙げたものの、家庭に静かに起こった異変のため、一般高校の入学を断念せざるを得なかった。同じ職場で共働きをしていた両親が、同時にレイオフされたことだった。両親の職場は「供销合作社」(社会主義計画経済体制下に作られた、主として、農村における生産と生活の需要を満たすための商業機構)と呼ばれている集団所有制の組合だった。一昔前までは様々な物資が調達できるため、花形職業とされていたが、市場経済への移行に伴い、今やすっかり時代に立ち遅れた仕事になってしまった。
張さんは成績が優秀な生徒だった。先生も高い期待を寄せ、本人も市の重点高校に入学して、大学で勉強したい夢を抱いていた。受験勉強に没頭していた彼に、両親はついに事情を明かせず、後になって知ったことだった。
レイオフされた両親は、叔父の小さなラーメン屋台で手伝うことになった。朝早く起きて仕事に出、帰宅するのは夜だった。汗でエプロンがびっしょり濡れ、スピーカー代わりに物売りの声を出していた母親は帰宅した後、のどがガラガラに枯れていた。へとへとになって帰宅した両親に、張さんのできることは、大きな琺瑯びきのマグカップをそっと差し出すだけだった。コップには張さんの入れたお茶が入っていた。冷蔵庫がないため、数時間前に入れて、冷ましておいたお茶だった。
結局、重点高校への入学を断念し、工業高校に入ることにした。工業高校だと学費負担がない上、毎月36元の手当てがもらえた。その3年後に、彼は機械工場に配属され、月収500〜600元(約8000円)の労働者になった。自分の生活を維持するには問題ないが、両親の暮らしを楽にできるほどの額ではなかった。そして、張さんに5歳下の弟がいて、当時高校二年生だった。弟にこそ何としても大学に入らせたいと心を決めた。
現状打破の突破口はどこか。そんな中で、彼はあのチラシを見た。彼の心には、様々な思いが掠められていたのだ。

 
研修生活:ひたすら働く、ひたすら節約する、ひたすら我慢する

 「日本へ行く。日本に行けば、苦労はするけど、中国よりたくさんお金が稼げる。そのお金があれば、両親に楽な暮らしをしてもらい、弟を大学にやることができる。」
 張さんは心を決めた。が、出国費用のやりくりには苦労した。保証金や手続きの費用は、全部で4万元(約50万円)にも達する。自分の貯金、そして、両親にありったけのお金を出してもらい、やっと日本行きが現実になった。
 鄭州で半年間日本語を勉強した後、張さんは初めて海の向こうにある祖母の母国でもある日本の土を踏んだ。富士市では同じく機械加工の現場で働いた。給料代わり支払われていた手取り手当ては月7万円だった。この金額は契約書に書かれていたものなので、それ以上の賃上げは期待できない。ひたすら残業代の稼ぎに賭けていた。毎日4時間残業し、宿舎に戻る時間はいつも夜10時過ぎだったという。その後、テレビをつけて、語学番組を見て日本語を独学した。あまりにの寂しさから、祖母と日本語で文通を始めた。
 その節約ぶりも並大抵のものではなかった。
「家にいた時は、ビールが好きだった。しかし、日本で飲むビールの一杯は、母親の一月分のミルク代になる」ことを考え、ビールを選択肢から外した。さらに、「食事は自炊。三年間、一日三食マントウ(蒸しパン)を食べ続けた。米の値段が高すぎる。小麦粉なら、1キロ98円で買える。」
 3年間、身を削る思いでひたすら働いて、ひたすら節約して、ひたすら頑張り続けた。30歳にしては薄すぎる頭をなでて、「髪は日本にいた時に抜けた」と言う。幸い、努力が実り、帰国までに人民元に換算すれば30万元(約400万円)の貯金ができた。
「両親に住宅を購入してあげ、弟に学費の心配なく、大学に入学させることができた」と何よりも安堵の表情を見せた。その弟は2000年に国家重点大学吉林大学に受かり、今は卒業して大学のコンピューターの教師になっている。「この前のコンピューター資格試験で、地域トップの成績をとった」、と自分のことのように喜び、自慢を隠さない。
そして、精神的な支えになった祖母には、前文でも述べたように、冷蔵庫と山のような日本の食材をお土産に担いで帰国したのである。

日本は修行の場だったのか  日本と日本人イメージ 
 張さんの3年間の日本生活は、あまりにも余裕に欠け、あまりにも温もりになる思い出が少なかったことは、残念としか言いようがない。彼の思い出の中に、祖母の母国である親しみやすい日本、または、祖母という極めて心の通じ合う身近な日本人があるものの、滞在中、ついに心の通う日本人の友人を作ることができなかったようである。彼の語る日本と日本人は近くて遠い、親切で冷酷、礼儀正しくて傲慢、温和で極端という両極端のものが複雑に入り混じっていた。
「日本には中国が学ぶべきことがたいへん多い」。
「日本人はとても親切な民族だ。みな優しそうに笑っている。作り笑いをしている場合もあるが、見た目、どの人も君子に見える。」
 「日本人は両面性が強い。マスクをかぶっている時が多い。商談の時、口では“はい”と言いながら、内心全然そう思っていないことが多い。」
 しかし、それでも、確実に言えることがある。それは、日本での研修生活は彼にとって、精神力の良い鍛えになり、人間として、彼は一層成熟し、一層しぶとくなったことである。
「寂しくて、寂しくて」と連発した日本生活を通して、彼は自分の得た一番大事なものについて、こう語る。
「とにかく、何があってもしぶとく生きること、命を大事にしなければならない。人生には様々な艱難辛苦が待ち伏せている。これからもどんなことが起きても、それに耐えられ、生き抜いていく力はついた。」

 結婚 人間は自分の分を全うすべき
 故郷に錦を飾って帰国した翌年の暮れ、張さんは幸せな家庭を築くことができた。妻は看護婦。170センチの長身で、美貌と優しさを兼ね備えた良妻賢母型の女性である。知人の紹介で知り合ったが、異国の厳しい研修生活で磨かれた男の顔には、同世代の男性の持っていない気質があり、それに妻は一目ぼれした。同僚たちの前で彼の話題をすれば、たちまち自慢話をしていたほどだ。
「こんなに愛されたことはない。妻さえいれば、もう何もいらないと思った」。惚れ惚れ状態で二人は結ばれ、5ヶ月前に、二人の間にかわいい女の子が生まれた。しかし、子どもが生まれても、夫婦の愛は冷めてはいない。
 「これからも彼女を一途に愛し、彼女の厚い信頼に報えるように、彼女に私のことを誇りに思ってもらえるように頑張ります」と熱く語った。
 かくも大事とする「しぶとく生きる」ことは、自分のためというよりも、家族のため、自分を頼りにしている人たちのため、良く生きなければならないという。
 「一人の人間にいくつもの身分がある。そのどちらも全うしなければならない。私の場合、息子として、兄として、夫として、父としてしっかり生きることだと心得ている。そうしてこそ、まともな人間と言える。」
 
 主よ母よ! 「房檐滴水滴滴照」
 一番尊敬している人は母だという。父は農村生まれで、祖母の年戸籍の取得で後から町部に入り、仕事を見つけた。一方、母は町部で生まれ育った人間だ。30年前は、都市戸籍農村戸籍かで待遇が丸きり違っていた時代だった。二人の結婚は、稀なケースだったと言えよう。
 その母はクリスチャンの家庭で生まれ、本人も敬虔な信者である。母方の祖父は文革中、政府の宗教取締りで牢獄に十一年間投じられていた。祖母が病弱で、他の兄弟は農村部に行かされたため、張さんの母は14歳の時から、手編みで靴下を編んで、それを売って、月7〜8元の収入を稼ぎ、母親と二人の生計を立てていた。
「故郷では、房檐滴水滴滴照(軒下に落ちてきた雨粒の一つ一つは鏡のように周囲を映し出している。上の代が良いことをすれば、下の代が自ずとそれを見習うことのたとえ)という言い回しがある。このような母の血を私が受け継いでいると思う。」
母の影響で、今家族全員がカトリックの信者である。結婚相手を選ぶ時、まず確認したことは「クリスチャンですか」だった。仕事が多忙で、毎週教会に通えるとは限らないが、心の中で常にキリストのことを忘れていないという。
張さんの感化で、祖母もキリストに帰依したようだ。
「私は祖母に言った。『おばあちゃん、「主よ、私の支えになれ」と唱えて』。祖母が本当にその通りに唱えてくれた」。
小学生の頃、上の子から「ハイブリッド稲」と嘲られ、祖母が日本人であることがトラウマだった張さん。祖母の言葉を喋れるようになるにつれ、互いの心が通じ合えるようになり、ついに信仰まで共有することができた。張さんにとって、何よりの心の慰めだったようだ。

転職 娘にこそ良い生活をしてほしい 
 日本から帰国後、張さんは元の工場に戻り、引き続き労働者の仕事をしていた。月給のほうは少し値上がりして、700元(約1万円)になった。
それまでの自分の夢、両親に家を購入し、弟に教育費を出し、そして自分が家庭を築くことは一つずつ実現させた。人生に、何一つ欠けるものがないように見えた張さんが、娘誕生二ヵ月後に、新しい決定をし、踏み出した。工場の仕事を止め、新しい仕事に着くことである。
 同じく海外研修を経て帰国した若者が、今度は自分たちが人員を派遣する会社を立ち上げた。そのビジネスパートナーにならないかと話が舞い込んだ。張さんは誘いに応じることにした。子どもの頃、なりたい順に俳優、作家、軍人という夢を抱いていた自分が、不本意にも労働者になった。わが軌跡を振り返って、話に応じた理由を明かす。
「このまま工場で働いていても、旧態然とした人生になってしまう。労働者の給料はいくら値上げされても、たかが知れている。昔、私は家にお金がなくて、大学に行く夢を諦めざるを得なかった。娘にこそ、そのようなことが絶対に起こってほしくない!」
 研修生派遣制度は昔、政府背景の会社に独占された業務だった。今は規制緩和により、個人の企業でもしかるべき手続きを踏み、商務省に100万元の保証金さえ払えれば、業務展開ができるようになっている。今、河南省には労務公司が全部で13社あるが、その大部分が個人の会社という。(蛇足だが、張恩龍さん情報によると、河南省労務輸出で最も多い職種は船乗りだ。海から遠く離れている河南人だが、訓練を経れば、遠洋の良き船乗りとして重宝されているようである。一説によれば、その数は20万人に達しているという。最も河南省は人口9200万もいる人口大省である)。
研修生派遣制度について、「しっかり実行できれば、たいへん良い制度だ。ただし、制度通りには半分ほどしか実行できない」と問題点があることを隠さない。しかし、昔の自分は、曲がりなりにも、この制度のお陰で、中国にとどまっていれば、一生かけても稼げない収入を手にいれることができ、家族に希望と夢を与えることができた。「物事には裏表があり、両方を見て判断する必要がある」。新しく設立した今の会社は第一陣の研修生を送り出したばかりのようだ。とにかく人材選定にこだわっているという。派遣が決定したら、辺鄙な農村部も含めて、自宅まで訪れて両親に話を聞くようにしている。「一人っ子、頭の良すぎる人、悪すぎる人をまず、対象からはずすね」と冗談とも本気ともとれる話し方をした。
 長所と短所を持ち合わせている今の制度は、実行する意義があると彼は確信している。面接にやってきた若者たちを前に、彼は6年前の自分を思い出さざるを得なかった。当時の自分と同じ境地に立っている若者がいるはず。研修生派遣制度を彼らに閉塞感を打開するツールにしたいと抱負を語る。一方、自分にとっては、研修生の先輩としてこれをビジネスでやっている以上、もらう分はもらう。言ってみれば、WinWin関係の構築を目指している。
ちなみに、研修生制度に関して、韓国と比べて、日本をより厳しい目で見ている。韓国では、教会や人権組織の働きかけもあり、すでに研修生制度の廃止が決定し、代わって雇用制度に切り替わることになったが、日本はこの面に関して、新しい動きが見えないという。
「世の中に役立つことをしたい。とにかく楽しく働き、お金を稼いで、娘の将来に備えたい」。父親5ヶ月目の真剣な目。
 

補足)張さんにとっての花岡事件
 元々、父が受難者連誼会の遺族代表だった。父は外交的な性格ではなく、内気な性格。日本から帰った息子に、「お前は日本語も話せるし、若い。代わりにやってくれ」と言われ、さっそく連誼会関係者に、その可否について確認した結果、恩龍さんの参加が認められた。
花岡事件」とのかかわりについて、冷静だが、足元を据えた視線で見ている。
「日本社会への理解を深めるにつれ、訴訟で勝訴する可能性が1%しかないことがよく理解できた。しかし、勝訴かどうかよりも、訴訟を通して、より多くの人にこの史実の存在を知ってもらうことが大事である。かつて、尊厳のために立ち上がり、戦った中国人がいたという史実を。」
 遺族の最年少代表として、張さんは連誼会の先輩から、バトンを受け継いでくれる人として高い期待を寄せられている。その期待の視線を浴びながら、彼は正直、現段階、約束はできないと話す。会社は発足したばかりで、ビジネスの基盤もまだ固まっていない。そして、所帯持ちになってまだ日が浅い。こんな自分にとって、まず何よりも大事なことは、生計を立てることである。もちろん、余裕の許す限り、連誼会の諸活動に積極的にかかわりたいという。

本便りの関連内容は、7月19日、20日をご参照くださいませ。