つばめ便り06年10月号 

さよなら、日本 ただいま、中国!

桂花陳酒の匂いが漂う秋に、つばめは無事中国に帰還しました。お蔭様で、充実した一年でした。9月下旬、大勢の方に送別会を開いていただき、どうもありがとうございます!中には、私の一方的な都合により、強引に会を合併させたり、あるいは、急に集まっていただいたり、急遽日程を変更してしまったりしたこともありました。わがままな日程設定で皆さんにたいへんご迷惑をお掛けしいたしました。また、ついにご挨拶にも伺えなかった方たちもいました。この場を借りて、改めて感謝とお詫びを申し上げます。
それぞれご多忙の皆さんでした。しかし、それでも貴重なお時間を割いてくださいました。皆さんの優しい気持ちは、折り目正しく、礼節を重んじ、出会いと縁を重んじる日本人像としてありがたく、私の脳裏に焼き付けました。
感謝を胸に、日本で過ごした日々を振り返り、蓄えてきたエネルギーをしっかり体に吹きこみ、今後に向けて精を出そうと思っております。これからもどうぞよろしくお願いいたします。


出発

10月3日、帰国日です。去年、東京に到着した時も、心酔いしれる金木犀が良い香りを放っていました。東京勤務の同僚・国清さんが車で見送ってくれることになったので、安心して荷物の山を携え、成田へ向かいました。
空港では、私を待っている大きなサプライズがありました。大相撲の式守伊之助夫婦が早々と到着して、待っていてくださったのです。3年前の大相撲北京公演での通訳がご縁で、今回の私の訪日を暖かく見守ってくださいました。文芸好きな逸子夫人には、私の朗読劇のステージにまで来ていただけました。
「今日の仕事はこれですから」、愛妻家の伊之助さんはにっこりと笑顔を綻ばせました。傍の逸子夫人も優雅に、明るく微笑んでいました。
「近隣同士は仲良くやらなくちゃね」、
「ハルピン郊外で、大地に沈む夕日の風景を見に行きたいな」、
出発ロビーのスターバックスでこんな会話を交わして、「今度は中国を一緒に旅したいね」と約束して、お別れの手を振りました。それにしても、お二人の律儀さに感動しました。お陰で、寂しく思う暇もなく、ほのぼのとした気持ちで飛行機に乗ることができました。

ジェット機が離陸しました。空から日本の山河をもう一度眺めてみました。何と、これまでと違って、大地が生き生きとした表情に見えてきました。そこには、ざわめきと熱気に包まれた祭りの囃子が響き渡っていた。夜空をゴージャスに装った絢爛たる花火が立ち上っていた。霞か雲かの桜吹雪や真っ赤な紅葉の妖艶さが写っていた。四季の移り変わりに一喜一憂する繊細な心や、物事をとことん追求し、極めようとする精神があった。そして、心揺さぶる芸術に惜しみなく拍手を送り続ける鑑賞の目が光り、笑顔と優しさと真心で客を出迎えるもてなしがあった。さらに、夢を追いつつも、生きる喜びや悲しみ、悩みを抱くたくさんの知人や友人たちの姿が浮き立っていました。
 一年の滞在で、脳裏の日本像は、もう無表情な異国ではなくなったことに気づきました。

到着
わずか3時間20分のフライト。一路平穏な飛行でした。最後の一時間は眠たくなり、うとうとしてしまい、目が覚めたら、果てしない、巨大で濁った雲の上に自分がいることに気づきました。
「20分後に着陸する。地上温度29度」。アナウンスがかかり、その雲の下に北京があることを知りました。しかし、夕刻の29度とは、10月の北京らしくありません。
飛行機は降下して雲を突き破り、北京の大地が見えてきました。懐かしいオレンジ色の夕日。滑走している間に、窓の外には、クレーンの長い腕と足場に包まれた新しいターミナルが見えてきました。猛スピードでオリンピックの準備に取りくんでいる勢いを感じます。

北京は国慶節で、ゴールデンウィークの連休中。本来、夕方でも渋滞はないはずですが、行楽帰りのマイカー族と重なり、一番外側の五環路を行くことにしました。運転手は50代、タクシーを運転してまだ3ヶ月。以前は個人経営のトラック運輸業を営んでいたが、最近盛んになった大型物流会社におされ、撤退せざるを得なかったといいます。
再来年の五輪開催について、彼は「中国人への元気付け効果」を大きく期待しています。そのため、生まれて初めてのチャレンジとして、果敢に英語に挑戦して、2回も試験を受け、ようやくタクシードライバーの資格を入手したという奮闘史を語ってくれました。惜しまず、努力の成果を聞かせてくれましたが、どうしても中国語っぽい発音で、聞き取るのに時間がかかりました(笑)。残念ながら、日本へのイメージが悪いようですが、私が強引に教えた日本語の挨拶を特に抵抗もなく、繰り返して覚えようとしました。「こんにちは!」。次回会うことがあれば、また聞かせてね。
タクシー料金はこの一年で一律2元に値上がり、家まで150元かかりました。久しぶりに手にした人民元のお札は、何だか「外国のお金」のような感触がして、いくら何でもこれは可笑しいと、我ながら思わず笑い出してしまいました。

ところで、一年ぶりのつばめの巣が近づくにつれ、少しドキドキしました。変わっていないようで、変わったようで、似て非なる感じでした。元大型機械工場の敷地だったこのマンションのすぐ対面に、また新しい団地が聳え立っていました。何故か地面が掘り返されていて、パイプ工事か何かをやっています。工事現場のすぐ近くに、軽食や果物の屋台が無秩序に並び、夜遅くまで賑わっています。近くに、北京西駅直通の立派な市内高速道路が開通しましたが、周りの平屋や大型自由市場の姿が綺麗に消えてしまっていました。

これだけの変貌を遂げるに、どれだけ騒々しい建設騒音と埃があったのか。それを考えると、丸一年逃げ出せたことがラッキーだったと思えました。しかし、工事がまだ終了したわけではありません。これからは逞しくこの建築ラッシュに負けずに、元気に生き抜きます。

帰省
 6日は伝統祝日の中秋節。昔、この日は一家団欒の日として、春節端午の節句と肩を並べるほどの三大祝日でした。しかし、大学進学で北京に出た後、私は家族と一緒に過ごすことがありませんでした。
今回こそよいチャンスと思い、翌日昼2時発車の帰省の列車に乗りました。今回は兄たちに迎えてほしいため、いつもと違った線路で、安慶行きの鈍行に乗りました。何と、18時間もかかります。何故国内移動のほうがもっと時間がかかるのか、考えてみても腑に落ちません(急行だと10時間)。

列車が何時間疾走していても、何の起伏もない平野の風景でした。丁度、綿花の収穫シーズンで、田畑では綿を摘む人たちの姿が見えます。しかし、大地の乾燥が気になります。また、日本から農村部に直行したので、両国の格差をリアルに感じました。
国内の地域差もしかり。いつも乗っていた北京・上海間の線路(合肥行)では、済南や天津などの大都会を通り過ぎ、風景も各地の名物料理もそれなりに楽しめます。しかし、今回の線路は中部地域を貫くもので、風景に変化が少ないだけでなく、道中、大きな都会もなく、メリハリが感じられない列車の旅でした。
列車の中でも車両により、風景が全然異なっていました。物売りのワゴン車をおっかけて、「硬座」車両を通過した時、あまりの暗さに、20年前にタイムスリップしたかと錯覚が起こりました。

ただ、20年前と著しく違ったのは、乗客の目です。かつて、出稼ぎ労働者は「盲流」と呼ばれ、行く末も知らずに列車に乗り、就職の旅に出かけました。呆然とした困惑した目をした人が多かったのですが、今は、外の世界をたくさん見聞した彼らは、世間慣れした自信のある目になっています。黒い床と暗い灯りに照らされた車両で、出稼ぎ労働者風の30代の乗客の侃侃諤諤の議論が聞こえてきました。
「アジアの盟主は誰が務まるのか。このままだと、日本に取られてしまうんじゃないか」。
まるで三酔人経綸説の世界でした。どこに行っても、「日本」は、何かと巷の雑談の肴のようです。
朝7時前、朝霧に包まれながら、終点安慶に到着。帰省中の兄夫婦は一時間ほど運転して、迎えに来てくれました。彼らの3年前に購入したフィアットは、今やすっかり疲弊の様子。揚子江を跨る大橋を超え、江南に入ると、見慣れた松林や生い茂った山が目に入り、旅の疲れがほぐれました。
両親も祖母も変わりはありません。ただ、紙切れのように薄かった母のウェストが二周りも太くなり、日本土産に買ってきた上着は、やっぱりLサイズにすべきだったかと嘆きました(笑)。

終わりに
 10月8日、中央テレビは19時の全国同時放送番組・『新聞聯播』(ニュース30)で、10分以上も、あるニュースを報道していました。安倍首相訪中のニュースです。4年半ぶりの首脳会談に、大きな安堵を覚えました。
 12日付けの安徽省の夕刊『新安晩報』では、安倍昭恵夫人と訪日中学生と懇談する微笑ましい写真が掲載されていました。「1000人も行くらしいのに、何故私たちの高校にチャンスがないのか」、と高校教師出身の父がぶつぶつ言っていました。庭先では、金木犀の香りが風に運ばれて胸に染み渡りました。東京の金木犀と変わらない香りです。この香りで、はっと気づきました。中国と日本は、同じ季節感を持つほどに近い近隣同士なのです。
来年の国交正常化35周年、北京で大勢の日本の皆さんをお迎えしたいです。

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北京放送・中国国際放送局主催
初の日中大学生ネット交流会
10月16日 15:00〜17:00(日本時間)
http://jp.chinabroadcast.cn/
http://jp.chinabroadcast.cn/81/2006/10/12/1@75779.htm

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◆つばめの落穂拾い◆
神輿を担いでみれば
 8月初め、群馬在住の中国人親友と彼女の中国語教室の学生さんの尽力で、忘れられないお祭りの体験をさせてもらいました。沼田市の天狗祭りで、女性が神輿を担ぐことで特色を出している祭りです。前々から、一度はお祭りで神輿を担いでみたいと思っていたので、話が持ち上がった時、真っ先に担ぎ手に応募しました。
 真夏の太陽がぎらぎら照り付けていました。留学生仲間のハンさんと共に、「青春18」切符で、一路沼田駅へ。ここは木々が生い茂り、なだらかな山々に囲まれた落ち着いた町でした。プラットホームに飾られた天狗の面に、神秘感を感じます。改札口を出ると、にこにこして人待ち顔の矍鑠としたお爺ちゃんにじろじろ見られました。気になったので、何気なく、口で「オウ」の形をしたら、「王さんですか?」と向こうから聞かれてしまいました。オオオ、今度はこちらが開いた口が塞がりませんでした。
 
(左)沼田駅に飾る天狗の面  (右)西田さんのご自宅で一服

聞けば、町の国際交流協会の西田会長でした。アテンドしてくださった茂木さんという方のアピールで、私たちの祭り参加情報が沼田市長にまで報告されたのだそうです。さっそく、一同は市長に会見。市長の特別配慮で、神輿の一番前(花棒)で担がせてもらうことになりました。
 沼田の「日本一大天狗」と呼ばれる天狗神輿は、今年は二基出ました。つんと、空高く聳える天狗の鼻だけで5メートルもあり、太さは成長した孟宗竹ほどありました。重さは、何と500キロ。これを100人の女性が担いで、町を練り歩くと言います。しかし、50キロ未満の自分が本当に力になれるのか、正直不安でした。
      
 
「あがるよ!」
女将さんの元気の良い発声で、私も皆と一緒に、一斉に力を入れてみました。持ち上がりました。動き出しました。鈴や拍子木や笛の音が響き出しました。「ソレ、ソレ」の囃子が叫ばれました。肩にはぐっと、重い力が食い込んできました。思った以上の重圧でした。しかし、皆と一体になり、確かに私も一緒に練り歩いていました。
 一人の力ではどうしてもできないこと。力を合わせさえすれば、こんなすごいことができる。重たい神輿は間違いもなく、正真正銘の「百人力」で動かされていたのでした。
女指揮のリードで、一刻も休むことなく、皆が口々に「ソレ、ソレ」と囃子を立てて行進していました。考えてみれば、これも不思議なことです。ただ担ぐだけなら、無言でも担げたはずです。しかし、無言だと精が出せないし、不気味にさえ感じる。「ソレ、ソレ」と口をそろえて叫べば、自分の持つ以上の力が出せる気がしてしまいます。「ソレ、ソレ」の海に浸かって、自分が段々と意識が遠のき、思考停止になりました。何だか、大きな海原にあるちっぽけな一粒の水の泡になったような、狂乱というか、酩酊というか、不思議な境地に入っていました。

 

 花棒で担ぐこと30分、最初の休憩時点に到着。行列が止まるにつれ、体と意識に正気が戻ってきました。慌てて、がらがらになった喉に潤いを与えました。
休憩の後、今度は一番後ろに立たせてもらいました。すると、今度は後ろでしか体験できない思わぬ発見がありました。何と、神輿の真ん中には、若い男たちが4人ほど立っていました。そして、四隅にも丈夫そうな男性たちが舵取り役をしていました。せっかく、女性の力だけでここまでできたのだと思ったのに。さらに、驚きはもう一つありました。
花棒と違い、後ろの人は何も見えない。したがって、神輿がどこに進もうとしているのか、何も分かりません。それでも、ただ、ひたすら力を合わせて、声を合わせて、流れに任せる。神輿を担いだ以上、もう任せるしかありません。神輿をリードしている人は、前方に立つ指揮と助役たち、そして、四隅で狂走防止に当たった舵取りたちです。担ぎ手と彼らとは、絶対的信頼関係で結ばれているのでした。
 私の担いでいたのは、ただの神輿ではなく、日本社会の成り立ちや日本人の精神構造にも通じるものがあったようです。
 私の日帰り旅行プランに最高のアテンドをしてくださった茂木さんを初め、関係者の皆さんに今一度、謝謝!

◆つばめの落穂拾い◆
朗読の体験
 

日本にいる間、朗読劇のステージに立ったことが忘れられない思い出となりました。知人の紹介で文化団体・「朗読アンサンブルれもんの会」の教室に通う事になり、3ヶ月の猛練習で、5月初めに、「れもんの会」主催の「東京民話劇場」に何とか無事出演できました。無論、私にとって、これといった使命感もなく、単なる趣味からスタートしたものでした。それが、送別会の席で、会の皆さんから心揺さぶられる感想が聞けました。
 長年、江戸の民話収集に尽力してきた脚本家の岡崎柾男氏はこう言いました。(写真は10月1日・最終回の稽古を終えて)
 「王さんという中国人と知り合って、まずは、一衣帯水という言葉を実感した。何だか昔から知っているような親しみを感じたからだ。そして、日本人の平和の問題。平和がなければ、文化が成り立たない。王さんを通して、お互いに理解しようと思う気持ちの大事さを確認できた。これが74歳の自分にとって、今年、一番嬉しいことだった」。
 続いて、演出を指導してくださった平尾登紀子氏の話です。
「中国人の友人と出会ったことによって、中国の存在を意識した。素敵な女性の友人ができたので、こんなすばらしいことはないと思う。両国間でどんなことがあっても、心の中に友人がいるので、ぶれない。人と人とは理解し合えるものだということに対し、今回は一つの自信を得た」。

 私は意識してはいませんでした。しかし、私の加入が、皆にとって中国人とどのように交流すれば良いのかという、実践的課題を投げかける事になったようです。暖かく、誠実で、かつ真摯に対応してくれた皆さんに、感謝しています。「これからも民話を通して、日中の文化交流を深めてほしい」。彼らの熱い視線と期待は、キーボードを打っている今もひしひしと伝わってきます。       


◆つばめの落穂拾い・写真版◆

宮沢賢治が健在している!有機農法の里・山形県高畠の思い出★
日本の原風景を満喫できました。星さんの話で忘れられない言葉は、「私は農業を作っているのではない。クラフトを作っているのだ。一つ一つの農産品はみな私の作品です」、と。
原剛先生と原ゼミの皆さんに、謝謝!
   
   

★サンキュー!天児先生&ゼミの皆さん★
シャープな問題でも明るいムードで率直に議論ができたのは、野球とカラオケとコンパが好きで、いつまでも青年のような若さを保っている親分がいるからです。かわいい中国語で書いた評価、ありがたく頂きました。
 
                                 

★絶世の琉球美女との出会い〜夢の旅・珊瑚の島へ〜★
良きガイド&旅連れ・田幸小姐、お世話になりました!
本場の13号台風の直撃は、世界の末日の到来かと思いました。しかし、それでも、つばめにとっては、竹富島ほどかわいくて、人懐っこい島はありません!高那旅館のおじさん、大きな夢を抱いていましたね。東アジアを視野に入れたスーパー・ピーヤシ(島胡椒)王国の完成を目指して、くじけずに加油!そして、CRIの番組表、これからも貼らせてくださいね。
与那国の光男くん!自作サンシンの音色はすんばらしかったですよ!シンセサイザーとサンシンの共演で歌った「安里屋ユンタ」、チョウ格好良かったです。炎天下にもかかわらず、飛行機が空高く飛び上がった後も、地上から手を振り続けてくださいましたね。人を拒む海を持つ与那国では、人をこころから歓迎してくれる人が大勢いたのですね。
 そう言えば、絶世の琉球美女を歌った民謡、「安里屋ユンタ」、歌詞を中国語に翻訳してみました。誰かトライして歌ってみませんか?
 

★大歌舞伎の美しさに魅了★
5時間も劇場に浸ったのは、生まれて初めての体験です。花かご弁当は優雅なメニューでした。石山さん、謝謝!


★サンキュー、Dおばさんの雪枝さん★
さすがディズニーのプロ!お陰様で、ようやく初めて味わえたDランドのクレージーな雰囲気!ピーターハンの乗り物が大の気に入りです。一押の夜のイルミネーション・パレードも最高でした!次回はシーのほうも、引き続きご案内お願いいたします♪
                               

(故郷の今を飾る花)