アリランの旅(上)

ピョンヤンは遠いところ


<対岸を見てみたい>  
 中国は1日から7日までが大型連休。私は前倒し休暇をもらい、4月26日〜29日、三泊四日の「アリランの旅」に参加し、ピョンヤンに行ってきました。
 人間には、境界の向こうにある風景を、一目見てみたい願望があるようです。私も例外ではありません。丹東・鴨緑江のほとりに立てば、対岸の木々や家屋、人々の動く姿まではっきりと見えます。山や水が繋がっており、橋もかけられている。しかし、何故か人間が自由に行き来できない。何とも不自然な感じを覚える。とにかく、一目、対岸に行って、向こうの風景や、人々の暮らしを見てみたい。抑えがたい好奇心と衝動に駆られ、旅に出ました。
 北東アジアの大地は新芽が吹き、満開の山桜や杏が春爛漫を謳歌していました。


<日程>
【概要】

4月26日(木)〜29日(日)(遼寧省丹東市から出入国
   三泊四日、24人ツアー
総費用 計2540元/人
(うち、旅行費2100元、アリラン大型人間体操ショー入場料400元、
ガイドや運転手へのチップ40元)


【メイン行動】
26日 ピョンヤンへの移動(新義州から250キロ)
   丹東→新義州鴨緑江を挟んでの対岸。列車で8分。電車賃60元)
   新義州ピョンヤン(列車での所用時間約6時間)
27日 板門店見学(ピョンヤンから176キロ)
   ケソンで昼食後、付近の王建陵を見学。
   午後ピョンヤン市内見学(金日成生家・万景台、地下鉄乗車体験、主体思想塔)
   夜 アリラン・ショーの鑑賞
28日 ピョンヤン市内・万寿台大記念碑(金日成銅像)を見学して、
   妙香山へ(ピョンヤンから150キロ)
   国宝館(金日成・金成日氏の海外から受け取ったプレゼント陳列館)見学
   普賢寺見学。
   昼食後、ピョンヤン市内見学(友誼塔、凱旋門金日成広場、1968年拿捕した米諜報船の見学など)
29日 丹東への移動(250キロ)
   ピョンヤン新義州(列車で約5時間)
   新義州→丹東(列車で8分)
   16時半に丹東に戻り、無事終了!


 列車が鴨緑江の橋を真ん中まで走ると、ほっとした開放感を感じる。「ただいま、中国!」。振り返れば、対岸は以前と変らぬ神秘的な雰囲気に包まれている…



【詳細日程】
初入国した26日だけを取り上げて、詳しく紹介することにする。


<入国>
9時 9時 丹東駅出発。二両編成の中国側の列車に乗る。当日、丹東出発のツアー客は二グループあり、総勢60名ほど。私はその中の24人のツアーに個人で乗り込む。携帯電話やノートパソコンの持ち込み禁止を旅行社から伝えられる)
 8分後に、新義州駅に到着(ピョンヤン時間10時8分。以下はピョンヤン時間)。鴨緑江大橋を半分過ぎた所で、「国境の石碑が見えるよ。写真を撮るなら、ここで早く!さあさあ、早く、もうしまいなさい。検査されるから」と、中国人乗務員が急き立てる。橋を過ぎ、陸に入ったとたん、肩にライフルを背負った人民軍兵士の姿が見られた。見慣れない外国の軍隊に、何故か、本能的に「こわい」という思いに襲われる。小さな番屋にも人民軍兵士が立っていて、自分もどこかから常に、誰かに見られているという不自然な感覚がある。

列車が泊まり、人民軍兵士が乗り込んできた。最初に入ってきたのは、比較的陽気な若者で、「ニイハオ!」と手を挙げて声をかけてくれた。緊張が少しはほぐれた。次に男性と女性の兵士がそれぞれ乗り込み、男女別に旅行客の身体検査や荷物検査を始める。前日買ってまだ読んでいない中国の新聞紙は念入りにチェックされ、内容まで聞かれる。「経済紙」だと説明したら、納得してくれたようだ。
ガイドも乗ってきた。40代の韓さん、旅行社の課長らしい。中国語がたいへん流暢で、穏やかそうな性格の人だった。私の参加したツアーは少し変則的なもので、たまたまスルーガイドがなかったため、団長が代わりに挨拶し、「丹東の旅行社からの預かりものです」と2個のダンボール箱(お菓子やお酒などの差し入れもの)を指差した。車内で検査終了を待つ間、スカート姿の若い女鉄道員二人が、笑いながら、レールの上ではしゃぐ、何気ない風景が目に入った。最も心がほぐれた時だった。


アリランの旅は、観光させないことからスタート>  


 綿密な入国検査終了。下車して、3階建ての駅ビルの2階にある待合室に直接誘導される。トイレがあり、椅子が40脚ほどある。喫茶店のような空間もあるが営業はしていない。生ビールを売るような設備がある以外、商品は一切置いていない。
 トイレに水道がないため、丹東で買ってきたイチゴやプチトマトが洗えない。駅ビルから出て自由に外を歩けないため、退屈な4時間だった。
窓の下はちょっとした広場である。妙だ。何故か歩く人の姿が多い。四方八方に向かって、人々は歩いている。大八車を押しながら歩く人、大きな荷物を背負って歩く人。自転車や三輪車の人も多い。川向こうの丹東の新築高層ビルはまるで借景のように、新義州の空を飾っている。
 驚いたことは、女性たちがほとんどスカートを穿いていること。薄化粧をしていて、綺麗な人が多い。一方、男性たちは、何故か均一の黒か灰色の人民服のような服装をしていて、冴えない。制服姿の人がたいへん多い。形が良く似ていて、色がそれぞれ違う。後で分かったのは、それぞれ人民軍に税関、鉄道員、それから警察のようだった。
 11時半頃に、市内から三輪車でお昼の弁当が届けられた。発泡スチロールケース二つにご飯とおかずがそれぞれ入っている。ご飯には稗や小石など多少混ざっているが、味はまあまあ美味しい。おかずにはキムチ、豚肉、魚、卵など。お腹いっぱいになった。



<初めて接する朝鮮の人々>


 26日の二グループ、約60人の中国人観光客のために、ピョンヤンから5人以上のスタッフが迎えに来てくれた。ガイド5人のほか、列車内だけの随行員もいました。
 私たちのガイドの韓さんは必要最小限にしか話をしてくれない。待合室では、用があると何かを伝えに来るが、すぐに姿が消えた。もう一つのツアーのガイドは若い女性で、客と一緒にいて、よく話をしている。鮮やかなピンクの上着に黒のスカート。スニーカーを履いている。中国人のように中国語が流暢に話せる。子どもの頃に、両親と共にハルビンなどで暮らしたことがあるとか。他に三人ほど若者がいたが、折を見て彼らに話しかけると、その中の一人は私たちのガイドだったことが初めて分かった。金恩恵さん、23歳。一ヶ月前に大学を卒業したばかりで、中国語学習暦は半年。まだ実習の身のようだった。もう二人は、ピョンヤン外国語大学英語学部の在学生で、今回は社会実習のために来ているそうだ。彼らは本日のツアー客を迎えるために、前日、新義州入りして一泊していると聞く。新義州ピョンヤンを結ぶ列車は一日二本あるが、もう一本は真夜中の発車だと聞く。
 外大三年生の李智慧さん(19歳)は英語が実に流暢。大学ではカナダやオーストラリアからの先生が教えていると言い、将来の夢は外交官だと言う。初々しく、勉強熱心。英語と中国語で話しが通じるので、李さんとの話にとくに違和感はない。
 一方、金恩恵さんとも色々おしゃべりでき、言葉を教えてもらったりして、優しくしてもらった。しかし、ピョンヤンの平均月収や、外食一食あたりの費用、商品券や米の券はどのように配給されているのか等の話題になると、「すべてママが管理しているので、私は分からない」という答えになる。
 ただ、本当に分からないのか、教えたくないのか、微笑んでいる彼女の笑顔から真相は分からない。本人も「何も分からなくてごめんなさい」という顔をしていた。大学教師の母に国営工場の技術者の父の長女で、弟は名門の金策工業総合大学で勉強し、妹は音楽と踊りに長けていて、北京や厦門へ公演に行ったこともあるほどの実力だそうだ。5人家族で、90平米あるピョンヤン市内の高層住宅に住んでいるとのこと。何はともあれ、根気よく、私に言葉を教えてくれた彼女に感謝している。彼女のお陰で、いたるところに掲げられているスローガンの意味を幾つも読み取れた。


<いざピョンヤンへ>
 
 再び列車に乗り、新義州を出たのは、午後14時10分だった。列車が動き出し、全員ガタ〜ンと誰かに猛烈に引っ張られた感じ。スピーカーからは聞くに耐えないボロボロの音が響いてくる。ちょうど蒸気で真っ白になったガラスの窓越しに外を見るのと同じように、スピーカーの中に錆がたまっているようで、何をかけているのか、聞きづらい。
 列車はこんなに揺れる交通手段だったのか。車体は左右によく揺れ、船に乗っているようでもあり、時には乗馬しているようでさえある。最初は皆で声を上げて驚いていたが、その内にリズムに乗って楽しめるようになり、何でもなくなった。
 250キロを6時間ほどかけてゆっくりと走る。途中、6~7回ほど停車したかと思う。列車は動き出す度に、ガタ~ンと乗客を激しく揺さぶる。道中、ピョンヤンに近づくまで、町らしい町は見られなかった。田畑でせっせと働いている農民たちの姿を数多く見た。一部、耕運機が田んぼを耕している風景も見たが、痩せたアカウシを使って、耕している風景が多かった。
 広々とした土地を挟んで村落と村落がある。見た感じ、中国より人口密度が薄いようだ。町も村落もよく似ている画一した家屋が多い。黒い屋根に白い壁、様式も向きも同じだ。驚いたことには、この国では住宅はすべて国が建て、それを無料で住民に提供しているそうだ。ただ、都市部の住民は電気代や水道代を自ら負担するが、農村では電器も水道もただであるという違いはある。
 もっと驚いたことは、山々に木がほとんど見られないことだった。穏やかな丘陵地帯の連続で、小川も流れ、雨もそこそこ降っている土地柄に見受けられ、緑の木々があって当然のはず。しかし、山のてっぺんまで段々畑になっている所が多い。田植えの前で、小麦を除いて、ほかの農作物が見られないため、広大な土地は土をむき出した状態にある。木々が生い茂っているという想像中のイメージとはかけ離れていた。
 道中の撮影は厳禁されている。最初は車窓の外をずっと観察していたが、走っても、走っても景観に変化がみられず、単調さでしばらくうとうとしていた。


 19時50分、ピョンヤン駅に降り立った。実習ガイドの金恩恵さんとはここでお別れ。彼女は駅から徒歩10分ほどにある家に帰り、一家団欒の夕食が食べられるようだ。金さんの父親は仕事から帰ってくるのは午後7時過ぎで、帰宅後、シャワーを浴びたり、整理したりすることも必要なので、家で、毎晩の夕食時間はだいたい9時になると言う。あまりの遅さに驚いた。
 ピョンヤン駅はそう大きくはないようだが、フォームは広々としていて、天井も高い。旧ソ連風の建築である。大きな布製のリュックを背負う人の姿が多く見られ、検札口では長い行列が出来ている。混雑しているが、秩序は守られている。私たちは外国人専用出口から駅を出て、「もう写真を撮ってもかまわない」と許可され、暗闇だがパチパチと何枚か記念に写真を撮ってみた。
今度のガイドはチャングムのような可愛い24歳のペイさん。やんわりと聞きやすい中国語で笑顔が実に素晴らしい。性格も優しそうで思いやりがある。黒のブレザーとスカートに黒の革靴、襟の立つシャツ、こざっぱりとした身なりである。なかなか好感の持てるガイドだった。


<島のホテルに到着>


 20:10頃、大同江・羊角島にある羊角島ホテル(47階建て。3大特級ホテルの一つ)に到着。ロビーにはネイティブなアメリカ英語を話す60代の白人ツアー客も到着。
 「もう夜が更けました。皆さんもよくご存知のように、私たちの国はエネルギー不足で町が暗い。ホテルの周りに電灯もない。皆さんは言葉も分からないし、暗闇の中で方向を迷いやすい。もし一人で市内に行った場合、迷子になったらどうしますか。ガイドとして、本当に心配でたまりません。どうか、皆さんの安全のために、外に出歩かないようお願いします。」
 確かに、今夜はもう遅い。それに、夕食もまだでお腹がぺこぺこ。ピョンヤンの町へは島から橋を渡らねば行けない。この国にはポケベルも携帯電話もないし、迷子になったら大変なことになる。何よりも、チャングムのようなペイさんが「心配している」。「どこにも行かないから、安心してね」と素直に自粛できた。
 20時半に夕食。特級ホテルだけあって、レストランは大変清潔で、服務員も若くて、きれいで、礼儀正しい。白いテーブルクロスの上に、黄色や赤のおかずを綺麗にいっぱい並べている。よく見たら、中華料理の回転テーブルがないため、6品を三回ずつ並べている。豪華とは言えないが、清潔だし、味はさっぱりしていて、私はどれも美味しくいただいた。ただ、お料理はずいぶん前に用意していたらしく、おかずもご飯も冷め切っていた。冷めた料理には慣れない中国人にとって、食べ慣れない。せめてご飯だけでも温めてもらえないかと交渉したが、服務員に丁寧に断られた。ご飯には昼以上に、稗や黒くなった米粒がたくさん入っている。中学時代の学食のご飯を思い出させた。中国もそういう時代があった。ご飯はご飯でも、今の米のほう昔より綺麗になった。ピョンヤンに来て、このことにやっと初めて気づいたのだ。


<二分されたホテルの地下>


 ペイさんの勧めもあり、食事後、ホテルの地下を見学してみた。実に不思議なことに、ホテルの地下は「中国」と「朝鮮」に大きく分かれている。片方は外国人しか出入りできない。ここには丹東人の開いたKTVや、マカオ人の経営しているカジノなどがあり、中国国内の娯楽場そっくりそのままの作りになっている。服務員も全員丹東から招かれている。もう片方は朝鮮側の経営しているプールやビリヤード、カラオケ、サウナ、マッサージなど。こちらは健康で、健全な雰囲気が漂っているが、客足が少ないようだ。


 ホテルの売店はすべてユーロで値段が付けられている。人民元で支払う場合は、1ユーロを10.8元のレートで計算される。自国産の商品にはタバコ、キャンディ、唐辛子ジャム、干しキノコ、熊の肝、工芸品など。外国製の飲み物やお菓子、日用品も数多くある。中国製が最も多い。旺旺米菓が一袋約8元で、特倫蘇(蒙牛の高級ミルク)と康師傅カップヌードルは約9元。中国産碧柔(花王P&G)の洗顔料は一個4ユーロ。どれも賞味期限内とは言え、生産日を見てみると、2、3年前のものが多かった。

 部屋の中は豪華でこそないが清潔で、何も不便を感じない。スリッパから使い捨て歯ブラシや、石鹸などすべて中国製。「観光客のためにどれだけの外貨を使っているのか。昔の中国と同じだね」、と同行の40代の中国人が嘆いていた。
何よりも感動したことは、テレビをつければ、CCTVの1と2が見られ、鳳凰台が見られ、NHKも見られたことだった。ピョンヤンテレビは繰り返して、前の日の閲兵式典を再放送している。4月25日は朝鮮の建軍節で、今年は75周年のお祝いだとか。
 
 窓から頭を乗り出して市街地の方向を眺めると、大同江の上の橋は明かりが弱くて、かすかにしか見えないが、人民大学習堂は暗闇の中で、ライトアップされていてよく見える。
 空気が実に澄んでいる。上弦の月が明るく空を照らし、星は近く、台に立てば、手に取れそうな距離だった。
 部屋は21階だが水圧は問題なく、気持ちよくシャワーを浴びることができた。周りは静かだし、ぐっすり眠れたピョンヤンの第一夜だった。