アリランの旅(下)

<スケッチ朝鮮>
 残り三日間の詳細日程は省かせてもらう。滞在中、ガイドを通して知ったことや、自分の感じたことを、ざっくばらんにメモしてみた。


1)人口と平均寿命
 「朝鮮の人口は、どのぐらいでしょうか」との問いに、複数のガイドから口を揃えて、「7000万人」だとの回答が返されてくる。
 「マジ?」
 びっくりして聞き返した。
 「このうち、北朝鮮は2300万、南朝鮮は4000万、中国の朝鮮族をも含めた海外在住者は700万がいる」と追加説明してくれる。なるほど。これなら納得。
 これに関連して、ガイドのペイさんが板門店行きのバスの中で説明してくれた、金日成氏の打ちたてた「祖国統一3大憲章」を紹介する。つまり、①南北の統一、②高麗連合国の建国、③全民族の大団結。
 ところで、ピョンヤンから板門店までの約170キロは、「統一大街(統一大通り)」でつないでいる。1995年、金日成逝去一年後に完工した道路で、離散家族の面会もこの道を通して実現。板門店(ケソン市)からソウルまでは約60キロしか離れていない。しかし、60年かけても到達できていない道のりでもある。
 「現在、統一大街(統一大通り)は板門店までですが、今度、私たちの祖国が統一した時に、皆さんぜひまた遊びに来てください。一緒にこの道からソウルまで行きましょう。好Ma?」とペイ・アカシ。
 ちなみに、平均寿命は男性72歳、女性76歳となっていると聞く(1945年は38歳)。


2)住宅
 住宅は国が無料で提供。「ピョンヤンの住宅は8割がエレベーター付きのものだ」と言われているので、8割以上が中高層ビルになる。確かに、高層ビルが多い。しかし、建材・デザイン・色や向き。どれをとっても画一的で、何とも言えない異様な感じがする。
建築の質も、見ていてハラハらする所が多い。壁など、明らかに垂直や平らでない建物がある。ピョンヤン以外の町では、特にそう感じる。窓ガラスは平らではなく(私の子どもの頃も同じだった)、不ぞろいな凹凸が異なる光を反射している。また、10階ほどの建物でも、屋根に煙突がたくさん突き出ていることに驚いた。オンドル文化が徹底しているようだ。
 矛盾を感じざるを得ない。平等に社会の富みを分け合うことの代価として、個性が抹消されている。家が同じだけでなく、衣装も顔の表情も考えも画一化される。本当にこれが皆の求める理想なのだろうか。
 ちなみに、朝鮮戦争が勃発する前に、ピョンヤンには40万人余りの住民が住んでいたが、戦争中、米軍が42万9000発の爆弾を投げた。画一化された高層ビル群の建設には、「ピョンヤンの町を地上から抹消しようとしていた」かつての米軍の蛮行に負けてはならじの意気が感じられる。
 

 住宅のほか、11年制義務教育(幼稚園1年、小学校4年、中学・高校計6年)、大学教育(試験にさえ受かれば)もすべて国が全額負担。また、医療もすべて国が全額負担。「わが国の負担が大きい」とペイ・ガイドは言うが、そこまでしっかりできる点は感心する。学校や病院の見学が出来ればよいのに、今回は残念ながら、そのような予定は組まれていない。病院では薬品が不足しているという噂もあるが、真相はどうなのだろうか。
 社会の公平性と発展の両立は、本当に難しい課題のようである。
 


3)物価と消費
 この辺のことは、外国人観光客にとって、謎だらけである。しかも、現地の店の見学が許されていないため、余計に神秘的に感じる。
ペイさんの話では、平均月収は5000朝幣(公式レートでは、約300元、つまり、日本円約5000円)。ただし、住宅や医療、教育などは国が負担してくれている。
「昔、中国は布を買う時は布票、米を買う時には米票が必要な時代があったが、今の朝鮮ではどのような制度なのでしょうか」。言葉遣いに気をつけながら、ガイドの韓さんに尋ねてみた。
「ああ~、それは80年代のことですね」。それきり、この話題が出てこなくなる。配給制の「票」の存在を否定している。一方、ピョンヤン行き列車で、同行の金さんに同じ質問をしたことがある。「そうそう、色んな商票があるよ」とちらっと話をしてくれたが、彼女もそれ以上、詳細なことは聞かせてくれなかった。
 また、ホテルで、韓さんと隣の部屋に泊まっている同じツアーの男性客は、夜、白酒をもって、韓さんのドアをノックし、一緒にお酒を飲んだようだ。その時、50代の中国人は、「物品の供給状況は今どうなっているのか」と聞いてみた。「年齢によって、供給する食糧はグラム単位で計算されている」という話をしてくれたという。


4)貨幣
 朝鮮の貨幣は中国語では「朝幣」と言う。公式レートでは、人民元1元は約朝幣17ウォンに相当。しかし、闇では1元が100ウォンで取引されているとも言われている。ただ、これは本当かうそか実証がなく、私では判明不能。しかし、丹東では実に不可解な土産が売られている。「鮮幣」の紙札である。3枚組で人民元5元、全セットでも人民元15元で買える。しかも、5元や15元は言い値で、量が多い場合、値引きも可能のようである。
ちなみに、朝鮮側は外国人観光客の朝幣の持ち帰りを厳禁し、たとえコインでも禁じられている。外国人は基本的に隔離されたところで行動し、消費しているため、外国の貨幣そのままで支払いができる。
 

5)休日
 よく働く国民のようだ。毎週、日曜日だけが休む。大型連休はなく、国民の休日は普通は2日休む。最も盛大な祝日である「太陽節」(4月15日、金日成誕生日)や春節なら、3日間休む。
 「太陽節」を祝うため、今年も「アリラン」と題する大型ステージを、4月15日から5月5日まで、毎晩、「五一体育場」で開催。総勢10万人の参加によるマスゲームは実に見事だった。1万席以上ある正面ステージにある座席は、人間で埋まっている。様々な色の旗で、文字を組んだり、山河や松や花の模様を一瞬にして変えて見せる。人間で演じる電光掲示板の技は、すごかった。
 空高く飛び回るスリル満点の雑技も披露された。全般的によく出来たステージだったと思う。民族の歴史や思い、願望がよく伝わってきた。ただ、個人は一切浮き立たず、伝わらないステージだった。
 ピョンヤンの市民なら、いくらで見られるかは、とうとう教えてもらえなかったが、外国人料金は400人民元だった。真正面の座席ワンブロックに丸ごと隔離され、外国人専用にしている。高いチケット代だけあって、外国人用のチケットはきれいに印刷された豪華なものだった。


6)テレビ、通信、インターネットなど 
 公衆電話があるが、携帯電話やボケベルはないようだ。パソコン教育を重要視していて、インターネットもかなり使われているようだと聞く。ただし、特殊な組織や機構を除き、一般のところでは、インターネットは国内に限定しているようだ。海外とのメールのやり取りも当然、許されていない。ちなみに、ガイドの韓さんは18歳の娘と16歳の息子と四人家族で暮らしている。家にはパソコンがあり、WindowsXPを使っているようだ。
また、外国人が入国した際、携帯電話やノートパソコンの持ち込みが禁止られている。中国の旅行社から事前に言われたため、ツアー参加者たちは全員、携帯電話を丹東に置いてきた。持ち込まれた場合は、税関のほうで保管されると聞いた。


 テレビは全部で三つの「通道」(チャンネル)があるようだ。初日のガイドの金さんの紹介では、それぞれピョンヤン通道、教育通道、万寿台通道(ドラマなどを放送)である。なかには、ヒョンヤン通道だけは毎日放送されているが、後者の二チャンネルは土日や祝日のみの放送になっている。
 ちなみに、NHK放送文化研究所編の『データブック世界の放送2007』によると、朝鮮のチャンネルは以下の三つからなっている。
 朝鮮中央テレビ=一日5.5時間放送。日曜、祝日は各12.5時間
 朝鮮教育文化テレビ=一日3時間放送、日曜、祝日は各10時間
 万寿台テレビ=土曜3時間、日曜9時間放送


 羊角島ホテルでは、金さんの言う「ピョンヤン通道」しか映らない。3泊したが、毎晩のように25日の閲兵式典を再放送していた。ほかは歌詞付きの賛歌や、時代物のドラマも見られた。


7)出版物
 街角やピョンヤン駅で新聞売りのスタンドは見たことがない。ホテルや土産店では、朝鮮語、中国語、日本語、英語の各種出版物が見られる。ただし、こちらも信じられないことに、十年前のものが多い。
 新義州駅で、10元で買ったピョンヤンの地図は、後でよく見てみると、1997年のものだった(それにしてもまだ完工していない、三角形姿の超高層ビル「柳金ホテル」は当時から記されている)。日本語や中国語観光ガイドは、主体88年・1999年の出版物だった。しかも、値段は44元(約660円)もする。全部チェックしたわけではないので、やや偏った結論かもしれないが、どうやら最近出版した斬新な出版物は少ないようだ。
 土産店で一枚65元の高値(中国では、国内の一般のCDは20元前後。特殊の録音技術でレコーディングしたものや輸入盤は70元以上)で買ったCDは1991年の出版物だった。
 もちろん、最近出版された雑誌など、まったくないわけではない。最新号(主体96・2007年4月号)の『朝鮮』(No.610)中国語版は10元で売られている。一冊もとめて、めくってみると、内容が強烈だった。亡くなって10数年が経つ指導者が、あたかもまだ健在しているような扱いで、人民と一緒にいる写真や記事をニュース風に掲載している。挙国、その偉大な人物の死を未だに現実だと受け止めていないようで、奇妙な感じがした。

 
8)地下鉄 
 今回のツアーで最も楽しかった体験は、地下鉄の試乗だった。生のピョンヤンを比較的近い距離で触れた、数少ないチャンスだったからだ。
 ペイさんの話では、ピョンヤンの地下鉄は1968年から工事を初め、1973年に運営開始。深さ100メートルのところを掘って作ったものなので、入り口に入ると、いきなり、底知れない深〜いエスカレータに乗る。北京と似ているところは、一律料金を実施していること。朝幣5ウォンでどこまでも乗れる。
 ホームにたどり着いたら、ヨーロッパの教会のようなアーチ型の屋根に、綺麗なシャンデリアや花で飾られている。ただ、作りもそうだが、電気が暗くて圧迫感がある。車両は3輌構成のようで、車体自体はかなり旧いようで、レトロ風である。座席が多くて、背もたれも深い。ラッシュ時対応ではないように見える。
なんと、外国人観光客のため、一輌目を貸切コンパートメントに臨時指定。幸い、ラッシュ時でもなかったし、私たちの乗っていたのはたったの一駅に過ぎなかった。一般市民にそんなに迷惑をかけていないようだった。


9)食事、物資供給など 
 食事は豪華で、種類が豊富とは言えないが、真心をこめて用意してくれた品々だったと思う。キムチは毎食欠かさず出された。ただ、北京で食べているキムチと比べれば、唐辛子がかなり抑えられていて、色も薄かった。キムチのほか、もやし、豆腐、犬肉(一回のみ)、豚肉、魚、卵、キャベツなどが出された。緑の野菜や果物が少ないようで、キャベツのほか、ほうれん草は一回出されただけだった。果物は出されたことがない。
 ご飯に稗や小石などがあり、多少、注意しがら食べなければならないが、お変わりは自由だし、私は毎食、美味しくいただくことができた。卵の炒め物や、鶏のスープが特に美味しく、豚肉の炒め物も本格的な豚肉の味で美味しかった。
 何故か、車窓で眺めた感じでは、一般の人が気軽に出入りして、外食する飲食店は見られなかった。車窓越しに眺めた商店には、物は入っている。しかし、品数が豊富ではないようで、例えば、琺瑯びきの食器なら、同じ食器で綺麗な形を作っていて、それをずらりとカウンターに並べているという感じ。私の子どもの頃、中国の商店も似たような形だった。
 一般市民の買い物する商店を、とうとう近くで見学することができなかったが、ガイドの話では、商店は夜、営業しないとのことだ。

 
 物資供給に関して、思わぬところでありのままの朝鮮を垣間見たシーンもあった。妙香山の宮殿(国宝館)で、基本的に外国人と自国の人間が別れて、見学することになっているが、トイレは共通のものを使っていた。そのトイレで、トイレットペーパーの色とざらざら感に驚いた。稲のわらのような色をしている粗い紙だった。ホテルや観光客専用のところでは皆そう白いちり紙だったのに。

 
10)交通手段&ピョンヤンの花 
 ピョンヤン市内ではトロリーバス、地下鉄などがメインの交通手段である。タクシーもあり、すべて国営のものだそうだ。バス停前で行列して、バスの到着を待っているシーンが、たいへん羨ましかった。中国人の学ぶべきことである。
 ピョンヤンを出ると、車の量がぐっと減る。自転車と徒歩がメインの交通手段になるようだ。たまに、人間を満載しているトラックが疾走していく。道路が舗装していないか、あるいは長い間、舗装しなおしていないのか、車が走った後には砂埃が巻き上がり、長い尾を引いて残していく。鉄道のレールの上を歩き続けている人たちがいることにも驚いた。
 ちなみに、鉄道網は整備されているが、車両の本数が少ないようだ。平均時速は30〜40キロだと言われている。
 

 ところで、ピョンヤンではお勧めのユニークな風景がある。つまり、信号の代わりに、交通指揮をしている女性警官だ。ガイドのペイさんの話では、ピョンヤンでは、冬と夏、つまり、一年で最も寒い時と暑い時にのみ、信号機を起動するが、それ以外の時は、すべて若くて、綺麗な女性警官が信号の代わりに指揮をする、これは昔からのピョンヤンの仕来りのようだとか。
 見た限り、どの女性警官も颯爽としていて、一刻も仕事を怠らず、まめに、真剣に交通棒をあげて、往来の車に指図を出している。ピョンヤンに行けば、ぜひぜひ冬や夏を避けて、そして、交差点をしっかり観察してくだされ〜。一見する価値があり、目の保養になる。


11)忘れられないシーン
 

 何はともあれ、名も知らぬ人たちの笑顔が、アリランの旅の最も心が和む思い出となった。女性たちに「アンニョハセヨ」と声をかけると、たいへん丁寧に、礼儀正しい返事が返った。
 大型観光バスはめったに見られないものなのか、外国人が珍しいのか、道中、すれ違ったほとんどすべての人から見られている。妙香山に行った日はとてもお天気が良く、花々も咲き、新緑が美しい季節なので、地元の人たちも大勢川沿いの林の下でピクニックをしている。道路ぎわの子どもや大人たちに手を振ると、皆さん大層喜んで、警戒心のない笑顔を返してくれたのには感動した。とりわけ、子どもたちが飛び跳ねてはしゃぎ、手を振ってくれたシーンは忘れられない。
(ちなみに、私たちの専用車は旧い日野。右ハンドルで、ドアも左側にしか開いていない。車体前部のナンバープレートの上に、裏返されている看板があるが、よく見れば、「奈良交通」と書かれている。観光バスを除いても、全体的に、大通りを走る車の中に、日本車が多いようである)。
また、帰国する日の朝、ピョンヤン駅に向った際、大同江の橋のたもとで、ギターを手にしている青年が立っていた。青年は黒や灰色の人民服ではなく、普通の浅い色のシャツを着ている。バスはすぐにそこを走りぬいた。青年は何故ギターを持って、そこに立っていたか、誰を待っていたか、知る由もない。しかし、この断片的なシーンが、私はとても嬉しかった。この画一化された灰色の町で、個性を現そうとした力が育っているかもしれない。そういう期待感がもてたのである。



<ハプニング&帰国まで>

生の朝鮮が見られない
 観光中、一日何カ所も土産品店を案内してくれた。しかし、どれも外国人専用のところで、値札はすべてユーロで表示されている。言ってみれば、中国の友誼商店のような店である。ただし、友誼商店は値段が一般の店より、多少高くても、格別に高いことはない。ここは店により、同じ商品でも値段がまちまちである。極端な場合は、2〜3倍の差がある時もある。
 「これから案内するところは、皆さんから高い、高いと良く言われる。しかし、安心してください。ここの商品はどれも品質が保証されている。買っても買わなくても、とにかく皆さん、見るだけ見ていただけませんか。」
さすが、チャングムのペイさん。車を降りる前に、皆の心配を見透かしたように、予防注射をし、心を慰めてくれる。

 三日目、大小合わせて、一日で三ヵ所も土産品店を案内してくれた。品物がそう豊富とはいえない上、地元の買い物客がほとんど見当たらない。店に入っても、ピョンヤンに来た実感が少ない。
 「一目でよいので、ピョンヤン市民が買い物をする店を見せていただけませんか」。陰の力持ちの韓課長に相談してみた。「ああ〜〜うん~~」、肯定も否定もしない穏やかな返事だった。「期待できるかも」、と一人で喜んでいたが、その後、何もリアクションはなかった。とにかく、付き添ってはいるものの、相変わらず口数の少ない韓課長だった。
 三日目は、中国人民志願軍を記念する友誼塔の見学があった。ガイドの希望通りに、10元で金日成花や金正日花の入った花束を供え、行列に並んで、ペイさんの号令で、三回お辞儀をした。
 かわいいペイさんとはここまでは、仲が極めて良好で、「お姉さん」とまで呼ばれ、記念写真も何度か一緒にとっている。
 撮影時間になった。塔の中に入り、記念名簿を細かく見ている人もいれば、先に下りた人もいる。塔から100メートルも離れない辻口に近くの住民が出入りする売店があった。
「よし、今度こそチャンスだ」。そう思い、美女ガイドのペイさんに気軽な気持ちで相談してみた。
「一目でも良いので、見に行かせてくれない?」
「店はもうしまっています」。
「なら、中に入らなくてもいいの。窓越しでもいいのよ。連れていって頂いて、一目、覗かせてもらっても良い。すぐ戻るから、お願い!」。
「無理です。もう時間がないから」。
まるで人が変ったように、ペイさんは憮然として居直った。犯しがたい威厳を見せている。
 「どうしてだめなの?」
 相手の意見を尊重するつもりで確認したのに、こちらも憤慨している。理解はできない。怒りが突き上げ、デジカメのレンズを売店方向に向けて、ズームアップしてぱっちと写真を撮った。100メートルも離れたところなので、綺麗に取れることは無理だと承知しながら。
 「何よ?撮ってはいけないのに、写真までも?!」
 今度は、ペイさんが逆上した。そのまま気まずい場面になったが、私は黙ってバスに乗った。その時、この後に、続きがあることを予想しなかった。
 

 次の観光地は金日成広場。見学と言っても、だだっ広い広場だけだった。写真撮影に、10分ほど時間が与えられた。平日の午後なので、広場に人の姿がまばらである。ぱちぱちと写真を撮り、周りを見渡せば、写真撮影の屋台が50メートルほど先のところにある。何とかそこまで移動して、正面から屋台を見てみたかった。しかし、屋台は皆の集まっている方角と離れていて、向きもこちらを背にしている。もしそこまで移動すれば、明らかに集団から逸脱した行動になる疑いがある。何せ、バスを降りたところからこちらをじっと眺めている視線を感じている。悔しかったが、50メートルほどの移動を諦めることにした。ぱちぱちと写真を撮り、バスの方向に戻ってきた。


 そこには、ペイさんがずっと立っていた。
 「お姉さん、カメラを見せてください」。「まさか!」と思った。しかし、ここは私の理解できない異国で、自分は現地の決まりを守らなければならない一観光客に過ぎない。言われた通りに写真を見せた。
 「人が写っている!削除して」、「これも」、「これも」…おばさんが写った写真や、人民軍兵士がその辺を歩いていた写真、車窓から撮った街角の写真など、次々に削除命令が出た。
 このまま全部チェックされたら、大部分の写真は削除される運命になりそう。引きつった顔で、「皆が待っているので、とりあえずバスに戻っても良い?」、と何とか強引に検査に終止符を打ち、バスに戻った。
 チャングムのようなかわいいペイさんとは、やはり違う国の人間なのだとその時、明確に思い知った。


<帰国まで>
 幸い、ペイさんはその後、写真のチェックを再び言及しなかった。しかし、雰囲気的に、いつ言われてもおかしくない環境だった。写真がチェックされるかもしれない件はその後、帰国の列車が動き出すまで、ずっと大きな陰となり、私に付き纏った。
帰途、ペイさんと韓さんはピョンヤンの駅で皆と別れ、別のガイドが新義州まで随行してくれた。チャングムのようなかわいいペイさんは、ファンが多く、擁護されながら、賑やかなムードでお別れができた。
 写真検査の件は、これでひとまず安心できるのかと胸をなでおろした。しかし、ドキッとした事態はまだあった。もうすぐ帰国できる嬉しさに、パスポートがまだ手元に戻っていないことをすっかり忘れた(入国時、全員のパスポートは朝鮮側のガイドによりまとめて保管される)。

 
 新義州に到着。丹東からの迎えの列車が既に待ってくれている。さっそく乗り継いで、祖国はもう歩いても帰れるところにある。その時だった。韓さんとペイさんの代わりガイドさんは、片手で24人のパスポートの入ったビニール袋を握り、「団長、カメラやビデオカメラは全部で何台ですか」、と大きい声でたずねた。
ひゃ〜〜〜出国検査はまだなのだ!
 中国人の乗務員に尋ねた。
 「デジカメも検査されるのか。」
 「そうだよ。」
 ひゃ〜〜〜「危険」はまだ過ぎ去っていなかったのだ。

 
 結果的に、何人かのカメラが抜き取り検査されたが、荷物の奥にしまった私のカメラは運よくみせよと言われずに済んだ。しかし、出国検査を含む2時間ほどは、不安を抱え続けていた。
ピョンヤン発の列車は、ピョンヤン時間の15時15分に新義州に到着。車内で待たされ、退屈な2時間ほどをやり過ごし、ようやく発車の許可が下りた。待っている間、突然ブラスバンドの威勢の良い生演奏が響き渡った。新たに入隊した兵士たちの歓送会だった。プラットホームは押し寄せた家族たちで賑やかだった。
 北京時間の16時15分ほどに、列車が8分の旅を終え、無事丹東の駅に着いた。何とも言えない安堵感を覚えた。乱雑で、無秩序にさえ見えるこの町、そして、気まぐれに大きい声で鼻歌を歌い、大通りを歩いていくここの人たち。私はやはり親しみを感じる。



<結びに代えて>

  山のあなたの空遠く 「幸」住むと人のいふ
 噫、われひとゝ尋めゆきて、 涙さしぐみ、かへりき

 「幸」を探しに出かけたわけではないが、ニュースに良く出てくる神秘的なところを自らの目で確かめてみたかった。もしかして、誰もがまだ気づいていない何かを発見できるかもしれないとも期待していた。しかし、対岸に渡ってみたが、自分とピョンヤンとの対視距離は、本質的に変っていないことが分かり、さらに、やはり自分の岸が恋しかったことも分かった。
夕方、北京に戻る列車に乗る前、鴨緑江の丹東側の岸に立ち、もう一度対岸を振り返ってみた。黄緑に吹きかえった木々の枝に隠された世界と人々は、以前と変らぬ神秘的な雰囲気に包まれている…
 夕日がまろやかなオレンジ色を水面に射している。丹東は夕方のラッシュ時が始まったようで、タクシーが渋滞で移動が鈍くなっている。同じくこの時刻、ピョンヤンの町で、アリランのショーを一目見てみたくて、わくわくした気持ちで整列している市民がいるかもしれない。また、野原や鉄道沿線では、「〜万歳」を大きく掲げたスローガンを背に、テクテクと家路を急ぐ人たちがいるはず。
 わずか数百メートルの川幅で、今日もそれぞれ自分のレールに乗って、動いている。
 余談だが、私にストレスと束縛感の与えたアリランの旅は、一方では、鏡を見るような気分もあった。それは、過去の自分をリアルに映し出した鏡だった。昔と変ったところ、本質的変っていないところなど、色々とリアルに映し出した鏡だった。


 次回は、停戦線のすぐ傍で「自由」と大きく掲げた南側から、パンムンジョムを眺めてみたい。