CCTVドキュメンタリ・「孤城記」

うるうるしながら、テレビの前に釘付けになりました。

[新闻调查]郴州:孤城记
http://news.cctv.com/china/20080301/104147.shtml

北京は麗らかな冬の太陽に照らされていた時、
南の湖南省郴州市
(ほんとに南で、ほとんど広西チワン族自治区と隣接している)で
たいへんな雪の災害に見舞われました。
中国の総理が2日隔てて、2回も視察しに入ったところ。
それだけ被害がひどかったです。
460万人の都会。林業と工業の町で、
基幹送電線だけでも7本が通っているこの街は、
春節間近の1月30日から約10日ほど、
すべての送電鉄塔が折れ、
町中が停電し、交通が中断され、通信も不通になり、
「孤城」状態に陥りました。


街中から電気の輝きが消えた時刻は
夜中の0時15分。
多くの市民は停電とも知らずに、眠りについた。
しかし、切羽詰った戦いが始まった。
片方は、氷点下18度以下の低温がないと貯蔵物が爆発する化学工場、
もう片方は、30度以上の暖かい温度がないと、
凍え死んでしまう生まれたばかりの早産児。
化学工場の冷凍室は後6時間で、気温が氷点下18度を上回る。
が、普段は電力供給重点確保先であるこの工場に
自家発電装置はもっていない。
「時限爆弾をしかけられたのだ」。
市長は今でも恐しさを抑えきれない。
また、市内で自家発電できる病院は市立病院一箇所のみ。
すべての早産児をそこに移さなければならない。


人間の命ほど大事なものはなく、
また、日ごろの平穏無事はどれだけありがたいことなのかは、
初めて分かった。
一方では、
たいへんな災害の中で、
相互の助け合いの大事さを感じさせる
感動的なストーリーがたくさん起きた。
平時では絶対に感じれない結束力を感じた。


なかでも、芽生えたボランティア精神が本当に嬉しかった。
13人の河北省唐山市からの農民が自費で借りた
マイクロバスを運転して、現場にかけつけ、
一緒に電力網の救助作業に参加した。
費用はすべて自腹で、支給された給料もすべて寄付金にした。
「唐山に大地震があった時、全国から援助の手が差し伸べた。
今回は、被災地が一番必要なものは人手だから」という。
リーダーの宋さんは35歳、
濃厚な唐山訛りで素直に心中を打ち明けた。
「有名になりたいから出てきたって?
 そう思っている人がいれば、自分たちもやってみと言いたい。
 畑で、大根でも掘ってるような生易しいことじゃないぜ。」
「食事?そんなのが、おいしいわけないだろう。
 とにかく、何でもかんでも唐辛子の味しかしねえ。
 北方の人には到底無理な味だね。
 なるべくご飯を多めに、おかずは少なめにして
 我慢している」。
とにかく飾り気がない。
立て板に水を流すようにおしゃべりだが、
センテンスが短くて、ユーモアたっぷりで分かりやすい。
「私たちに感動したって?
 私たちこそ、感動している毎日なのよ。
 もう感動して、涙が流しつくしたほどだ。
 郴州の人、人情味厚い!」
唐山弁だから、格別の持ち味がある。
20日間ほど滞在して、今頃はもうふるさとに戻り、
お酒もやっと飲めて、
遅ればせながらの春節を祝えたことだろう。


中国にとって、災害は過ぎ去ったが、被害はまだ続いている。
林業や生態の営業が一番懸念されている。
また、公共インフラの重大災害に対抗できる設計能力の
向上など、教訓と課題も数多く提起された。
今日から開かれる年に一度の両会議で、しっかり議論してほしい。