【旅行記】唐山の旅(上)〜大地震の記憶

縁があって、唐山という町に初めて行ってきました。
場所は、北京から200キロ弱東北方向にあり、
鈍行では3時間弱、高速バスでは2時間ほどです。


今回のきっかけはパラリンピックでした。
車いすテニスの董福利選手とおしゃべりをしていたら、
「今度、唐山へテニスをしに来てください」と誘われ、
「ありがとう!
 では、ほんとにお邪魔しに行きますからね」と
ずうずうしく誘いに乗ったのがスタートでした。



唐山の子どもたちがかわいい


■唐山行く“グリーン車”で■


今回は取材がてら、同僚2人と日本人の友達1人、
計4人で旅に出ました。
高速は国慶節で渋滞するのではと思って、
行きは列車で移動することにしました。
最初は、日帰り旅行を考えていましたが、
とうとうチケットの関係で、
前の晩に唐山入りする1泊2日の旅となりました。


30日は連休二日目。北京駅はたいへんな人出でした。
春節以外のゴールデンウィークに出かけたのは、
私にとって久しぶりのこと。
ここまで混雑すると想像できれば、
旅に出かける意欲すら失ってしまったに違いありません。
幸い、それほどの押し合いへしあいもなく、
スムーズに唐山行きのプラットフォームに到着。



やや薄暗く感じるプラットホームに、今時めったに見い緑の車両が
静かに待っていました。
臨時増設の列車なので、どこかで眠っていた
老朽化した車両を臨時に調達してきたのでしょうか。


さて、階段を下りて列車に近づきましたが、
一番手前の車両ナンバーは12で、
私たちのチケットは、ナンバー1でした…
うひゃ〜〜〜
大げさではなく、
ほんとに1キロ歩いたたと思います。
車内の空気は淀んでいましたが、発車してから、
車窓外から涼しい空気が流れ込み、気持ちよくなりました。
立つチケットは発売されていなかったですが、
見た感じでは、立っていた人も少しはいました。
しかし、私が大学生だった頃の超満員列車に比べますと、全然快適でした。


列車の席は、向かい合って設置されてあり、
ワンブロックに、通路を挟んで、片方は2人、もう片方は3人が座れて、
計10人が向かい合って座っています。
私たち4人と同席になったのは、片方は4人の高齢者グループ。
70歳のおばあちゃんと旦那、それからおばあさんのお兄さん夫婦です。
北京にいる子どものところに遊びに来ていた唐山地元の人です。
もう片方は、40代後半の中年の夫婦。
家は承徳という観光地にあり、
今回は会社の慰安旅行で北京に来ました。
浪人生活をしている息子は、
唐山の名門高校の塾に入っているため、
その息子の様子をチェックしに
こっそり唐山行きの列車に乗ったようです。


鈍行の旅は時間が遅いのがハンディですが、
ゆったりしているからの楽しみもあります。
70歳のおばあちゃんが地震の思い出を語ってくれたり、
また、将棋盤を並べだすと、
中年夫婦の旦那や近くの席の若者まで一緒になって、
考えてくれたりしていました。
お陰様で、列車内の人間関係を
たっぷり味わうことができた旅でした。


周りの風景は残念ながら、真っ暗闇の中だったので、
ほとんど見ることができませんでした。
唯一、高速列車の「和谐号」も乗り入れている
天津駅がたいへん明るかったことが印象に残りました。


発車約3時間後に、“グリーン車”は唐山駅に到着。
プラットフォームはやはり薄暗かったです。
唐山駅はこじんまりとしていて、
北京駅ほどたくさん歩かなくても、
すぐに駅前広場に出ることができました。


広場には、手をつないで仲良そうに待ってくれていた
董さん夫婦がいました。
董さんの瞳はパラリンピックの時と変わらなく、
黒くて、光っていました。
日焼けした肌が幾分戻り、スポーツウェアを脱ぎ、
スカート姿で登場した彼女は、女らしさが増していました。


宿泊は唐山大酒店。一泊220元。
董さん夫婦とは、11時半頃までおしゃべりをしていました。


■唐山地震:町の記憶■

唐山は中国の重工業の町です。
今、唐山で地震の爪あとを探そうと思っても、
どこにもその痕跡が見当たりません。
復興するまでに、20年ほどかかったと言われている唐山は、
今は、中国北方の普通の町と特に変わった感じがしません。


広々とした大通りに、綺麗に剪定したプラタナスの街路樹。
そして、碁盤の目によう整然と整備された町並み。
中心部には、「鳳凰山公園」という緑に覆われた公園があり、
緑化を重視している町のようです。
時々、大きなスローガンの書かれた横断幕や、
計画経済の時代を思い出させる建物や看板も見かけますが、
おしゃれな今風のビルも聳えています。
改革開放の初期から今に至るまでの各年代が、
ここの空間でミックスして共存しているようで、面白いです。



さて、大地震の後にゼロから作り直した唐山の町は、
地震の記憶をどのように留めるのでしょうか。
これは唐山で確認してみたいことです。
とりあえず、町中の抗震広場に行ってみました。
北京で言うと、天安門広場のような広場です。
周りに木々が植えられていて、
国慶節を祝うための植木鉢が並んでいます。
真っ赤なサルビアと黄色い雛菊は、
中国の国旗の色を織り出しています。
花壇の中には、大きなスローガンが立っています。
真正面に見えるスローガンに
「感恩、博愛、開放、超越」と書いています。


冒頭に、「感恩」(感謝の気持ち)をもってきたのは、
やはり、唐山の町だからではないでしょうか。
地震後に全国の助けを受けて復興したことに対し、
感謝の気持ちを忘れないと示したことでしょう。



記念碑は大地震が起きて10周年の年、
つまり、1986年に立てたものでした。
ユニークなデザインです。
イメージとしては、「人」の字を三面書き合わせ、
真ん中は空洞にしているようです。
見学者は石碑の中に入って、眺めることもできます。


100メートルほど離れたところは、抗震記念館です。
ただ、昼は休みだとは知らず、残念ながら、中を見学することができませんでした。
こちらも86年に開館したものだそうです。
次回こそ、しっかり見学してみたいものです。


唐山では、車椅子の方が良く見かけました。
公園の中でも、商店街をぶらぶらする人群れの中にも
車椅子や杖を突いた人が見かけました。
きっと、これが町の日常の風景に違いありません。
地元の人も、「唐山には身障者が多いです」と言います。
ここには、肢体の一部が切断された人専用のリハビリ施設もあり、
四川大地震の後も、数百人単位の患者を受け入れたと聞いています。
おそらく、中国のどの町よりも、身障者が普通に暮らしている町に違いありません。


身障者が信号をわたるシーンは、北京ではめったに見かけませんが、
唐山ではそれがめずらしくないようです。
今回の旅でお世話になった身障者の友達・王平さんは
「一人で出かけるのも平気です」と言います。


さて、王平さんの家で、お昼をご馳走になりました。
その時に、なんと、こういうお碗が出てきました。


「大地震が起きて8日後に、地元の瀬戸物工場で作ったもので、
 地震で何もかも失った中でもらったお碗ですよ。」


こう教えてくれたお母さんの口調には、敬意が伝わりました。
お碗の内側には、作った日付と「人定勝天」の文字が書いてありました。
焼き物は唐山の名物の一つで、
8日後にもさっそく作業を回復した瀬戸物工場は、当時、
どれだけ、被害者たちを励ましたことでしょう。
私の子どもの時、家で普段、使っていた食器は、雑な質のものが多く、
純白のものが少なかったです。
ここまで白く、しかも、綺麗な絵柄の入った食器は、
当時、かなり上等のものに違いありませんでした。
32年後の現在も、現役で働くお碗に、敬意を払いたくなりました。


■人々:大地震体験■


列車で出会ったおばあちゃんはおしゃべりが好きで、
地震のことを淡々と教えてくれました。


地震が起きたのは、夜明け前の3時42分。
 寝ている間に死んでしまった人が多かったです。
 死者は24万人で、四川よりはずっと多かったです。」
四川で大地震が起きた後、唐山の人々は昼夜、テレビを釘付けになっていた
人が多く、義援金の寄付も数多く行われていました。
中でも、唐山地震で孤児になった企業家が、1億元も寄付したことが美談になっています。


おばあちゃんは地元の煤炭学院の教職員のようで、
地震の時、家が崩れて、下敷きになったが、自力で瓦礫をのけて、
這い出したといいます。


「学校の宿舎にいました。当時はビルが少なくて、
 一階建ての家が多かったです。
 たった数秒でしたが、家がすべて崩れて、どうしたのかなと
 分からないうちに、建物の瓦礫に埋まりました。
 私は自力で這い出しましたが、足が怪我しました。
 地震が起きた時、走って逃げようと思ってもいても、
 不思議と足が動けなかったです。
 その後、小雨が降り出しました。寒かったです。」


おばあちゃんは、しばらくは食べ物も飲み物もなく、
途方にくれた日を送っていたと言います。


「飲む水もなく、鉱山の掘った後に染み出た緑のかった汚水しかありませんでした。
 仕方がなく、それを皆で分け合って飲んでいました。
 数日後に、軍隊のヘリコプターで、蒸しパンなどが投下されましたが、
 空港に近いところの住民は比較的多くもらえましたが、
 奥に住んでいた人はあまり来なかったです。
 また、せっかく投下された食べ物は、天気が暑かったため、
 入手した時は、もう腐ってしまったりしていました。」


おばあちゃんがここまで話すと、
向かい合って座っていた威厳ありそうなおじいちゃんは、
我慢の緒が切れたように、突然、口を利きました。


「あんたったら、そんなたいへんなことしか思い出せないのか。
 国が届けてくれた食糧はあなたは食べていたことを忘れていたのか。
 解放軍が助けてくれたことを忘れたのか。
 結局は国の救助があって、震災を乗り越えたのではないか。」


怒ったおじいさんに対して、おばあちゃんは決して負けていませんでした。


「誰がそれを忘れたと言ったのか。
 ただ、救助が入るまでには本当に色々たいへんなことがあったのだ。
 たまたまそれを思い出したので、自分の体験を話しただけじゃないか。
 何故、自分の体験を話しては、だめなの。」


おじいちゃんは再び黙り込みました。
きっと、家の中でも、こんな調子で夫婦喧嘩とは言わず、
交流をしていたに違いありません。


「あの頃、救援はたいへんだったでしょうね。
 とりわけ、物資の供給が。」
私たちの質問に、おじいちゃんは補足しました。
「最初の2、3日のことだけでしょう。
 物資はその後、すぐに供給されたから。」
二人の地震の記憶に、明らかに違いがあるようです。


「おじいちゃんは地震の時はどこにいましたか。」


「私は唐山にいませんでした。再び唐山に戻ったのは、数年後でした。」


これで、謎がやっと解けました。
もしかして、おじいちゃんは解放軍の軍隊にいて、
当時は故郷の唐山にいなかったのかもしれません。
だから、おばあちゃんが唐山地震の思い出を語りだすと、
真っ先に、軍隊への感謝の言葉ではなく、
自分たちがたいへんな思いをしていたことを
語ったのを許せなかったのかもしれません。


おばあちゃんも彼の気持ちを察したかのように、
話題が解放軍の救助に移しました。


「災難が起きた時にこそ、人間の素晴らしさが分かります。
 互いに助け合って過ごしていました。
 軍隊もほんとに良くしてくれました。
 だから、11月に撤退した時、市民は皆、泣いてしまいました。
 “もうこれで助けてくれる人がいなくなるのかも”と心配になって
 泣いた人もいましたが、やはり、
 良いことをいっぱいしてくれたので、名残惜しかったですからね。
 11月はもう相当寒かったのに、
 皆は綿入れのコートも着ないで、薄着のまま、トラックに立って、
 見送りにきた市民たちに敬礼をしながら、唐山を去ったのです。
 皆は、綿入れが配給されましたが、
 唐山の市民に綿服がまだ支給されていなかったので、
 彼らも着なかったのです。
 とにかく、市民からの御礼は一切受け取らず、
 水のいっぱいだって、受け取ってくれませんでした。
 私はいつか、彼らのボイラー室に
 茶の葉を1パック、こっそり置いてきました。
 ものを置く人が知られたら、必ず返してくれるから。
 もう、彼らのしてくれたことは、
 何日語っても語りつくせないほどです。」


さきほどの苦労話と同じように、
おばあちゃんのこの話も少しも偽りもなく、
心から感激の気持ちを抱いて話していたと分かります。
そして、人を救助しに行くために、
自らの命が犠牲になった軍隊のことも。


おばあちゃんは地震後、自分たちが自力で立てた
ルーフィングの覆った仮設住宅に長く住んでいました。
「唐山の町は、当時、飛行機の上から見下ろせば、
 ルーフィング屋根にレンガや石ころが置かれている
 仮設住宅ばかりだったようです。」
今もたまに、揺れの体感できる地震が起きているようですが、
唐山の建物は「耐震強度がしっかりしているので、大丈夫です」と
おばあちゃんは自信満々に言いました。


ところで、唐山大地震で、
おばあちゃんの姐は子どもを二人なくしました。
「行方不明になって、今も戻っていません」。
唐山地震は、「身内に、死者の出ていない家がいなかった」
ほどに死者が多かったです。
普通に考えると、余りの悲しみに包まれて、
何もできなくなったと勝手に想像してしまいますが、
意外なことに、おばあちゃんは
「その時は、悲しいとは知りませんでした」と話しました。


「とにかく、一緒にいたほとんどの人が死んでしまったので、
 自分が生きていることが不思議で、
 悲しむ暇なんてありませんでした。
 ああ、悲しいなと気づいたのは、
 その2ヶ月後、毛主席がなくなった時のことでした。」


ちなみに、翌日、出会った大地震の生存者袁達さん(68歳)も
こう話してくれました。


地震が起きた時、私は鋼鉄工場の工場の寮にいました。
 300人いた寮の仲間は、私を含めて、3人しか生き残っていません。
 しかし、死なれて悲しいというよりは、
 生き残ってラッキーだという思いが強かったです。
 誰彼の家は、何人生き残ったかが、挨拶代わりになって、
 一人か二人、もしくは家族の半分、
 もしくは“あそこは一人も生き残れなかった”とかの
 会話が多かったです。せっかく生き残ったから、
 しっかり生きていかなくちゃと思っていました。」


唐山の町も人も、悲しいことをいつまでも覚えておく
性格ではないようですが、
年に一度、町全体が悲しみに包まれる日があります。
それは、地震が起きた7月28日です。
「家族がどこでなくなって、
 どこに葬られたかを知る由もない人が多かったです。
 だから、この日になると、
 街角に出て、紙銭を燃やす人が多かったです。」


降りかかってきた災難をありのままに受け入れ、
粘り強く生き続ける。
苦しいことやつらいことにふけることなく、
闊達で、人生を達観する。
奔放な個性とユーモアたっぷりの唐山人の性格は、
翌朝、さっそく実体験で知ることができました。