成都華林小学校


看板の裏にはボランティアの名前が全員書かれていました。
楓の木は日本の象徴として、イチョウの木は成都の市の木。
学校の運動場の後ろに建てられています。毎日、朝晩30分ずつ、全校生徒のラジオ体操の時間に、
かならず全員が集まっているところでもあります。


廃材で作ったくずかご。パンダなどの落書きは生徒たちによるもの。中国語だけでなく、日本語と英語でも書かれていました。
「インターネットで調べたパンダについての解釈を絵のように
書き写しました」、と校長先生が紹介してくれました。

ここは、慶応大学の坂茂先生が中国のボランティアネットワークの関係者と一緒に仮設校舎を寄贈した小学校。
成都のやや郊外のほうに位置し、もともとは“農村小学校”だったのが、5年ほど前に都市化の拡大で町部の学校と合併した学校です。今も子供の約半分は親が出稼ぎ労働者だそうです。

ところで、坂先生の寄贈した校舎はこれまでに成都になかった紙でできた校舎でした。炎天下の夏休みに、40日あまり、日中の大学生ボランティアで組み立てたものです。

「暖かくてきれい!」
「感謝しています」
「将来は看護師になりたい。坂先生がもしお体が悪くなったら丈夫に治してあげたい」
「ボランティアのお姉さんお兄さんたちが素敵でした」

キャンパスの案内をしていただいた時、思いついて、突然2年3組の教室に無理を言って入らせてもらいました。しかし、どの子もしっかりしていて、元気そうでした。

校長先生も穏やかで、丁寧に対応してくれました。

地震時、被害の比較的軽い成都市外にあったこともあり、老朽化した校舎二棟が毀損しましたが、生徒たちはすばやく運動場に避難できたため、全員無傷でした。
ただ、生徒の中には、兄弟や親族が地震でなくなった子がいました。
さっきまで目をきらきらさせて、マイクの前に押し寄せてきて、われ先にと話したがった元気な子は、中学生の兄の話になると、突然、目が赤くなり、「兄は二人いましたが、今は一人になりました」。涙をこらえられずに、くるりと背を向けて逃げてしまい、周りの子たちもあっという間に散ってしまった場面がありました。

校長先生もずっと冷静な方でした。しかし、「一周年をどう振り返りますか」という質問で、突然、声が変わり、「仲良しや親族のうちには7、8人が地震で行方不明のままです。先日、清明節で北川に行ってお参りしてきました。私だって、地震のことを思い出して、大きなプレッシャーを感じています」と言葉になりませんでした。

地震が人々の心に与えた傷の深さは短時間の訪問でも少しは察することができました。
明日(8日)映秀鎮に向かいます。


仮設校舎は5〜8年使え、それまでに永久校舎を完成する予定ということです。