農村のいま〜叔父に聞いた話

中国の農村に関する文章を書くことになりました。
根っから農村生まれの農村育ちの私は、農村が大好きです。
祖父母の村に生まれて、10歳まで暮らしていましたが、
その私も、農村を離れて20数年が経ちます。
最近の様子は、年に一度、数時間程度の帰省でしか見ていません。
余裕があれば、ふるさとに戻ってしばらく暮らしてみたいのですが、
残念ながら、それがまだできません。
それで、今も農村に暮らしている叔父に電話することにしました。
叔父の話してくれた農村には、
多少変わったが、やはり変わっていないことが多い農村のリアリアティがありました。
私の大好きな農村は、結局は自分の夢見ている農村、
私を育ててくれて、大自然と触れ合う場を提供してくれた
イメージの中の農村のようでした。


叔父は父の一番若い弟で、8人兄弟の末っ子でもある。
今年は60歳。こう書きながらも、その叔父ももう60歳なのかと嘆いてしまう。
父の兄弟の中で、おじは唯一、子どもの時の私と兄を相手に、
大きな兄のように遊んでくれた人だった。
父の兄弟の中で、一番背が高くて、鼻筋もりんとしていて、
顔がハンサムな人だった。
しかし、ある意味、父の兄弟の中で、一番不運な人でもあるようだ。
4歳で父親に死なれ、中学の時に文革に遭い、
その後、高校まで進学できたものの、
青春時代、当時の若者が一番憧れていた軍隊入りに
「出身」が悪いため(祖父は木材商で、土地も多少持っていたようだ)、
土壇場で拒否され、しばらくは精神的に不安定なままだった。
父の兄弟のうち、現在も農村に暮らしている人はおじだけだ。
30も過ぎてからやっと結婚できたが、「一人っ子政策」で子どもは一人しかいない。
幸い、一人息子は大学まで行くことができ、普通に国営の自動車工場に就職できた。
しかし、「あの給料では将来果たしてどうなるのか。
願っているのは、自立だ。
老後の面倒なんて、見てもらうことはとうてい期待していない」と言う。


叔父夫婦は、今も30年前に建てた土間しかない家で、祖母と一緒に暮らしている。
祖母はこの5月に94歳の誕生日を祝ったばかり。
お蔭様で元気で、記憶力が良く、読み書きもできる。
「火葬は絶対いや」と言い、80歳後半になると、
町部の子どもたちの家での暮らしをきっぱり断り、断固、田舎に戻ることにした。
祖母の寝室の奥の部屋には、黒い漆で塗られたお棺が置かれている。
ずいぶん昔に用意したものだ。
「死支度ができた人こそ死神が来ない」という信仰があるからだ。
時たま、そのお棺を祖母が手で撫でて、
「お棺はまだふやけていない。
 私の寿命もお蔭様で、まだ大丈夫のようだ」とつぶやくようだ。


■さて、叔父から聞いた農村の話に戻ろう。

<人口>
おじの村は安徽省南部の丘陵地帯にあり、
特に極度に貧しくもなく、豊かでもない。
また、何か恵まれた資源やユニークな個性があるわけでもなく、
その辺にある普通の村落だ。
今、人口80人弱。
昔は90人以上いたようだったが、
「建築業や商売で富を手に入れ、都会に移転した家が何世帯があった」。


中には、村を離れたが、家を売らずに、
戸籍のほうも、家族の1〜2人だけ農村戸籍のままにしている家もある。
いざ都会でうまくいかなかった時、
帰ってこられる場所があるようにしているためのようだ。


一方、家を売らない理由には、「本人たちは口に出してはいないが、
自分の代に良い運勢をもたらしてくれた古い家だから、
人に売ると、運勢も相手に傾いてしまうと信じているようだ」。


<生計>
村の農地は全部で100ム(1ム=6.667アール)ある。
決して多いとは言えない。
主な作物は稲だ。
しかし、いくら農作業が上手な人でも、農業から得られる純収入
(生産や生活用コストを差し引いた後、手元に残った収入)は
年間3000元になるかならないようだ。
「農業で豊かになろうとすることほど、当てにならないものはない。
 20〜55歳までの青壮年はみな、出稼ぎに行っている。
 その人数は20人ぐらいになる。」


一番、稼ぎの良い仕事とされているのは、
北京での内装工事の仕事だ。なんと、6〜7人もいるようだ。
彼らの年間純収入は1.5万〜2万元で、
一家の主な資金源でもある。


「子どもが小学校の時はまだ良いが、中学にでも進学すれば、
 年間4000〜5000元の出費が必要だ。
 農業だけでは、子どもを中学に通わせることもできない」


ところで、叔父の家は自分の家の請け負った分を除き、
耕作放棄した村人の田んぼを借りて、
全部で8ムーの田んぼを耕している。
出来高は作る人の腕や田んぼの良し悪しにもよりけりだが、
「1毛作なら1ムあたり550〜650キロ、
 2毛作なら早稲は1ムあたり350〜400キロ、
 晩稲は1ムあたり500キロ」。


去年、籾殻の実際の買取価格は1キロあたり約14元。
叔父は5000キロほどの稲を売りに出しているが、
そこから得られた粗収入は7000〜8000元。
この中、コストをざっくり計算すると、
種、除草剤、化学肥料、電気代など全部で250元/ム
(人件費は含まれていない)


「毛主席は昔、農村には広い天地があり、若者が大いに活躍できる場があると
 話したが、その話は徹底的に間違えた。
 農業だけでは、ちっとも希望が見出せない。
 若者は出稼ぎに行くしかないのだ。
 年間純収入が1〜3万元あるならば、みなが受け入れられる幅なのだ」


■ちなみに、社会科学院が6月に発表した青書では、都市と農村の所得格差は
2008年にも拡大し、今までの3点数倍から4〜6倍に増えたとした。
また、2009年3月の全人代で発表された「政府活動報告」によると、
中国の都市部住民の一人当たり可処分収入が15781元に対し、
農村部住民の一人当たりの純収入が4761元となっている。


<食生活>
都会では当たり前と思っている食習慣が、農村では違う。
基本的には昔と同じく、自足自給である。
自分の家の野菜畑からとってきた野菜や
自分の家で飼っているが卵がメインで、
週一回市場から肉を買って食べる家が普通だ。
貧しい家は、月に一回しか肉を食べていないところもある。


「昔と大きく違うところは、来客があれば、市場で肉や、魚、
 豆腐などを買ってくるお金があるようになったこと。」


しかし、果物やミルクなどは、春節の時は特例だが、
日常的に買って食べている家はごく少数のようだ。
ただ、最近増えた贅沢は、暑い日、ビールを飲むようになったこと。



<物的な欲望>
基本的に、無欲というべきか、
それとも農民たちの欲望に合致したものは、まだ開発されていないというべきだろうか。
いわゆる、「家電下郷」(家電製品の農村での普及)プロジェクトは
ここではたいした影響力が出ていないようだ。
何故と言うと、すでに買った人は政策の適用対象にならない上、
それほどたくさんのニーズがないようだ。
「冷蔵庫は電気を入れるだけで、一日あたり1〜2度もの電力を消耗している。
 なので、ほとんどの家は、夏の暑い時、2〜3ヶ月間しか使っていない。
 デジタルテレビは良いものの、農村では使えない。
 パソコンがある家は極めて稀。
 たとえ、パソコンをプレゼントしてあげても、みな使い方すら知らない…」

家を建てることが一番のニーズだ。
村により、車やバイクを買う人も多いが、
おじの村は「道路の舗装工事」をしている最中なので、
車の増加はこれからになるようだ。


<おじ流節約法>
「農村に暮らしている以上は、都会の人のように振舞ってはならない。
 節約できるところは、節約しなければならない」。
これが叔父のモットーだ。
一月15元の固定電話の契約をキャンセルして、
電話は携帯電話一本にした。
携帯電話なら、毎月8元しか手数料がかからず、
しかもかかってきた電話に出るのは無料だからだ。


叔父の家は1980年代初めに建てた家で、
その後、何も変わっていない。いまだに炊事はかまどがメインで、
飲料水はため池から汲んでいる。
トイレは豚小屋のすぐ隣にあり、昔からの汲み取り式だ。
20数年も風雨に晒され、今は雨でも降れば、
家の中は水漏れするぼろい家になった。
が、いっこうに改築しないのは、
「まだ住める」と、一人息子の将来に対する配慮があるからのようだ。
都会でサラリーマンをしている息子が
いざ結婚やマイホームを購入する時、多少なりとも後援できるようにしたい
考えのようだ。


自分たちは自分たちで快適な暮らしをしたいという欲望が毛頭ない。



<生きがい〜不満と満足の間>
決して豊かとは言えない生活。
しかし、衣食だけは足りるようになった。
けど、衣食に困らなくなった人々の生活態度は、
良く言えば、達観的で、
悪く言えば、夢や向上心を持っていない農民が多い。
「村落」は有機的な社会としての機能がうまく果たせず、
個々の家がばらばらに暮らし、
たまたま隣り合って住んでいる人たちの集合体のようだ。


村として、年中行事やイベントがほとんどなく、
組織がそれほど機能していない。
一番の娯楽はテレビだ。
テレビは精神的に、文化的に飢えている人たちにとって、
一番の救い手になった。
次はマージャンじゃないだろうか。
午後になれば、みな集まってマージャンをする。
商売センスのある人が、「マージャン喫茶」の店を農村部で開くようになった。


しかし、一方では、集団で道路を作ろうとか、
ごみを分類して町並みを美化しようとか、
農地の改良をして、農業用水利施設を共同で作るとか、
そういう動きにはなかなかなれない。
個人の利益のほかに、公の利益というものがあり、
その公の利益はとどのつまり、
自分たち個人の利益にもつながっているという発想にはならない。


社会や国との関係の持ち方も同じだ。
根底には、ぬぐえない不信感があるようだ。
その一方で、制度作りに自分たちも発言できる権利意識はない。
数年前から導入された農村合作医療制度を例に、
「ほんとに大病にかかった場合は役に立つだろうが、
 日ごろの普通の病気は今までと大して変わらない。
 変わらないどころか、保険に加入していない場合、
 1000元で治る病気は、保険適用者と聞くと、
 医者は安心して薬を処方し、
 結局、医療費が1500〜1800元になるかもしれない。」


一方、叔父はこれから、農村地区向けの老後保険制度の導入を強く願っている。
農村でも、一人っ子世代の親が高齢者の仲間入りしようとしている。
こうしたことを背景に、
「若い夫婦は4人の親の面倒を見なければならないとなると、
 相当の負担になる。農村にとって、逼迫しつつある問題だ」とおじは言う。


叔父は農業の発展には絶望的だが、一方で、
全般的に農村の変化を喜んでいる。
文革時代、出身の悪い家の子は、村を出ようとする時は
 休暇届けを出し、認可が必要とされた。
 親戚が尋ねてきた時も、村に来訪者の名前を届ける必要があった。
 今は自由に動けるのでいい。
 改革開放を手がけたトウ小平に感謝します」



「衣食足りぬ」ぼけから、心の満ち足りることを求めるようになるまで、
中国の農村はまだ長い道のりを歩き始めたばかりのようだ。