おしゃべり大好き〜北京のタクシー運転手

北京は今年2回目の雪となりました。
今回は飛行機に乗る用がなくて、ほんとに良かったと思います。
前回は2時間半で行けるところを19時間かけて、しかもその中の
14時間を飛行機の中に閉じ込められた状態で待たされていたので、
空港と航空会社はそうとうひどい対応でした。
今回も同じような状態になった客がいないとは限りません。


さて、今日は2回タクシーに乗りましたが、2回とも人間性が発露していた
面白い運転手さんでした。
読書する時間が少ない自分ですが、
生きている本の頁が私の目の前でめくられているようで、
面白く乗せてもらいました。



◆その一)
 「人生のコツは半拍を置いて行動すること」


歯医者から出て、ドリルの音がまだ消えやらず、
自分の歯じゃないような感覚のまま、
ほっぺたを支え、いつもの張りをすっかり失った声でタクシーを拾った。
歯のことで運ちゃんは自らの体験を聞かせてくれた。
「3ヶ月ほど前に、空気を吸うだけでも歯が痛く感じた。
 けど、友達に××ブランドの歯磨きを勧められて使ってみたら、
 今はなんともないよ。調子はとっても良い。
 あんたもトライしてみたら?」
運ちゃんと歯磨きメーカーと全く関係はないようだが、
本心からその歯磨きを信用していることが見て取れた。


「歯医者のことを真に受けたらあかん時もあるぜ。
 どんなささやかなことでも、治療したいんやからな。
 私が思うには、歯というのはね、
 20代後半から30代前半がひとつの節目だな。」
と言いながら、後ろを振り向いて、
「あんたいくつなのかな。まだ若そうじゃのう?」と聞いてきた。
 

 「この時期はね、ややもすれば歯が悪くなりやすい。
  けど、これを過ぎればな、歯はまた丈夫になり、長持ちするからね。」

ほんとかどうか分からないが、
やさしい慰めだと受け止めることにしました。


運ちゃんはおしゃべりが上手で、人にいやな感じを与えないことにも
長けていました。
それでも、昼過ぎということもあり、こちらはうとうとし始めました。
「あの、今日は歯のせいで、元気が出なくて、声まで小さいの。
 それに眠いので、しばらく眠らせてください」と声をかけると、
うなずいてくれました。

15分ほどぐっすり居眠りして目が覚めて、丁度目的地近辺まで来ていました。
「道が思ったほど混雑していなくて良かったね」と声をかけると
「そうね」とうなずいてくれて、
「ところで、あなたは『今日は声が小さい』と言ったが、
 普段はどんな仕事をしているのかな」、とまた運ちゃんのインタビューが始まりました。
簡単に答えると、運ちゃんは話の続きをした。
「あのね、普段は怒鳴っている人はいつも焦っているので、
 それは歯には絶対に悪いですよね。
 ゆっくりと焦らずに、落ち着いて物事に対処したほうが
 健康の秘訣ですよ。」
さっき、私は「今日は声が小さい」と言ったのを
気にしてくれているようです。


えへへへへ。声が大きくなると歯に悪い??
これは初耳です。だけど、健康に悪いという視点から見ると、歯にも悪いことになるから、
納得できないわけもない。
運転手さんの話術がほんとに上手だなと思ったのは、
自ら設問し、仮説をたて、さらにそれを上手に解いていくことでした。
その中で、上手に客のプライバシーをほどほどに入手して、
自分の好奇心を満足させていて、仕事の達人だなと感心しました。


「でもね、あなたは見るからに怒鳴るような人間じゃないから。
 こんな心配はしなくてよいと思います。」

おっとと、なるほど。一旦貶して、まだ上手に持ち上げてくれたのですね。
目的地まではあと少し。でも、話はまだ続きます。

「私の村には、97でご健在のおじいちゃんがいます。
 何を聞かれても、おじいちゃんは数秒の間を置いてから、
 ゆっくりとしか答えません。
 長生きのコツは焦らないことだと言います。
 焦ってどこかへ行ったりしないで、
 ゆっくり物事に対処できるのがいいですよね。」


どうやら、私に言い聞かせているようです。
目の前にいるのは、運転手さんではなく、すっかり人生の師です。
「でも、普段からせっかちな人にゆっくりしてと言っても
 無理かもね。また、急に変えると逆に調子が狂う時もあるものね。
 一概に言えないですよね」。 
常に方向転換の余地を持たせながら会話してくれているので、
やっぱり話が上手な人だと思いました。
サービス精神も満点で、「のんびり屋がうちの村にはこのほかにもいたよ」
と言い出すや、一人二役になって、音色を変えて、
そののんびり屋と焦り屋の母親の対話を演じてくれるのでした。


以上が、運転しながら、生き方の指導に熱心だった運転手さんのことでした。
2人目の運転手は自分のドラマチックな半生を聞かせてくれました。


◆その二)「私の半生」


夜10時過ぎの五道口。
十三号線の駅は目の前ですが、雪がまだ融けていないし、早く帰宅したいし、
タクシーに乗ることにしました。
目の前の道は、渋滞で有名。
夜10時でも、タクシーがすぐに拾えないようです。
やっと空車が来たかと思うと、私の左にいた若い女性に先に拾われてしまいました。
ところで、すぐにチャンスが訪れました。
「国貿?行きません。西に行く人はいないかな」と運転手の声が聞こえました。
若い女性はやむをえず下車。
「私は西ですよ。魯谷です」と代わりにすぐに乗り込みました。
「OK。良く知っていますよ。
 ラッキーだね。私と丁度同じ方向に行く人が現れてくれましたね」、とめちゃめちゃご機嫌の様子。
「私の家は門頭溝。もう帰る時間だから。さっきの女性、車を拾う方向を間違えたのですね」。


なるほど。聞けば、理由はある程度納得もできる。
だけど、それより、運転席にいるハンチングをかぶっている「オヤジ」、
声がどうもおかしい。めちゃめちゃ女っぽい。
見た感じ、絶対女じゃない…しかし、声は女々しいだけでなく、ひげもないし、
運転する手も女性みたいに小指をあげたりしているし…
しかも、待てよ!!運転している最中なのに、
なんと、なんと、りんごを取り出して、かじりだしたじゃないの!!!


えへへへへ???色んな人がいるな。
で、もしかして、女性の方?
が、声はめめしいが、女性の話し方ではない。
そう思うと、余計にその声といい、イントネーションと言い、
むず痒くてたまらなくなりました。
性別も判断できない人にはどう話かければよいのかな。
困ったなと思いました。
だけど、私の心の中の葛藤について、先方はまったく察してなくて、
ひたすら話しかけてくれる。


「朝起きて、歯を磨く暇もなく家を出るから、
 口の中が異様でね。
 だから、仕事の日はいつもりんご2個持って出かけるの。
 今はのどががらがらだからね」


この調子だと、こちらが黙っていても、
先方はしゃべり続けるに違いありません。
今までの経験でも、北京の運転手さんはとにかくおしゃべり好きな人が多い。
それなら、仕方がな。こちらから質問してやろうと思い直しました。


 「今日は何時からお仕事ですか?」


ごく普通の質問でした。いや、私はごく普通だと思った質問でした。
ところが、意外な答えが返ってきました。

 「あなたは女性だから言いますが…」
どきっ。
「私は、あなたが女性か男性か、知りたいですけど…」
のど元まで出て来た言葉をかろうじて飲み込みました。
 運転手さんは続きました。


 「女性じゃないと絶対に正直に言いませんが、私は朝6時半に家を出ました。
  男の人に聞かれたら、だいたい、『夜7時頃に出てきたばかりだよ』って
  言うね。」


なるほど。一日の仕事が終わって、これから帰宅すると怪しい人に知られたら、
危ないかもしれない、と言うリスクがあるからですね。
こういう視点でこの質問の意味を考えたことがなかったので、なるほどと思いました。


「そんな、一日の仕事だけでは、奪われるほどの大金があるわけないでしょう」
「それはあなたはそう思っているかもしれないけど、
 そう思わない人もいますからね。金額は、今日は900元ほどですけど…」


言われてみれば、一日の仕事が終わって、手元の現金が900元になるとは
今まで聞いたことがありませんでした。だいたいは「まだ300〜400元だよ」
が普通でした。それって、偶然?それともこの運転手さんの言う通りの理由だったかな?


運ちゃんの性別の謎が解けないまま、話を続けることになりましたが、
ひょっとしたら、女性?と思った対話もありました。

「帽子をかぶっていらっしゃるのは、寒いからですか」
北京では帽子をかぶって運転する人はまずいません。
「そうですね。一年中かぶっていますけど、夏は白い帽子。
 帽子をかぶると男みたいに見えるでしょう」
そこで再び、「では、運転手さんは女性だったのですか」と
聞いてみたい衝動を抑えて、次の話題に行きました。


「運転手になって何年になります?」
「もう21年です。」
「当時は北京はタクシーが少なくて、商売もやりやすかったでしょう」
「そうでしたね。最初は『面的』(マイクロ車)だったからね。」
「どうしてタクシーの運転手になったの?」
「当時は、一人で7歳の子供を育てなければならなかったからね。仕方がないことです」
「それは別れたからですか。それともその他の事情で?」
「別れました。相手は賭け事にはまっていて、家庭に全然お金が入らなくなったから」


なるほど。ここまで聞いて、謎がやっと解けました。
女性運転手でした。やっとどうすればよいかと思っていた違和感が取れました。
以下はこの方が淡々と語ってくれた身の上話です。

       ◆◆◆◆◆◆
年は52歳。家は北京西郊外の門頭溝の山村。
村の近くに炭鉱があった。
北京市遠郊県から出稼ぎ労働者がたくさん働きに来ていた。
労働者たちはだいたい炭鉱の独身寮に住んでいたが、
所帯持ちの人は近くの村に入り、村人の家を借りて
住んでいた人も中にいた。


運さんの家にもそういう人が住んでいた。
「昌平県から来た郭さん一家でした。
 その郭さんの家に、同郷人の青年が良く遊びに来ていました。」


後に運さんの旦那になる人との出会いだった
その彼との出会いについて、淡々と振り返っていた。


「私は自分がブスなのが残念ですが、
 きれいな女性を見るのが好きですし、
 きれいな男性がもっと好きなのです」


彼は3人兄弟の長男。男前の良い青年だった。
「私はブスですが、若かった時、
 ひざまで届く長いお下げがあった。
 彼ら兄弟3人はどうもお下げには弱かったようです」。


意気投合した二人はすぐに結婚することになった。
青年は入り婿となって村に残ってくれた。
「炭鉱の仕事は危ないから、
 彼の安全が心配なので、
 つてを求めて、坑内に入らなくても良い職場に異動させた。」


まもなく子どもが生まれた。
子どもはまもなくして夫の母親のところに預け、育ててもらった。
妻は外に出かけて働き、夫は村に残って体力のいらない
適当な仕事をしていた。


「彼は最初はとてもやさしかった。
 家事はしてくれるし、料理も作って待っててくれました。
 だけど、それがだんだん食事が粗末になり、
 家に帰ると、やたらと饅頭(蒸しパン)がごろごろ転がっていました。
 もっと色々なメニューを作ってくれても良かったのにと思いました。」


村の饅頭売りは出稼ぎに来た若い女性だった。
「おかしいと思って、ある日、車に乗って
 仕事に行くと言いつつ、
 近くで車を止め、待ち伏せをした。
 まもなく、饅頭売りの女性が
 饅頭を山積みにした三輪車を押しながら我が家の前に現れました。
 彼も出てきて助け合いながら、
 三輪車は我が家の庭に入り、玄関の扉が閉まってしまいました。
 しばらくして家に帰り、
 二人が親密にしていたところを目撃しました。
 悲しかったです。
 彼をこのまま村に置いておくわけにはいかなくなり、
 臨時雇いの仕事を見つけて、外での仕事にばかり行かせました。
 饅頭売りの子との縁は切れましたが、
 今度はとんてもない遊びにはまってしまいました。
 炭鉱を出たばかりの頃は、トランプすらできなかった彼が、
 いつ、どこで覚えたのか、マージャンをやり始めました。
 稼いだお金がすべて消え、
 家にお金が全然入らなくなりました。


 『このままではあなに申し訳ない』と彼から言い出し、離婚が決まりました。
 『自分には子どもを育てる能力がない』と言い、
 子どもは私と暮らすことになりました。
 それが幸いで、逆に、ほしいと言われても、彼に渡したくはなかったです。
 姉は若くして定年で仕事を辞めたので、
 放課後の子どもの面倒を姉に任せて、
 私はタクシーの運転手として働き続けて、
 女ひとつ手で子どもを育て上げました。」


運転手は誰を責めるでもなく、淡々と過去を振り返っていたが、
息子の話になると、誇らかに言った。


「その息子、今年はもう28歳。孫が生まれて、もう3歳になります」。
その言葉から染み出てきたのは、なんとも言えない充実感でした。


「彼は、責任感の薄い人だったみたいですね」
「そうね。子どもの時に父親に自殺され、
 母親一人の力ではどうにもならなかったこともあっただろうが。
 とにかく、姑は離婚を聞いて、息子を勘当し、
 以降、実家への出入りを禁止しました。
 私は息子に年に一度、祖母を見舞うように行かせています。
 彼とはその後、一切、連絡は取っていないが、
 その後聞いた話では、昌平で商店の店員と結婚したとか。
 でも、そういう彼のことだから、きっと誰とでも長続きはしないじゃないんかな」


「運転手さんは、その後、再婚のことは考えたりしなかったのですか」
「私ですか。もう結婚しましたよ。4年前にね。
 子育ての時はこんなことを絶対に考えたくなかったけど、
 息子は結婚し、自立もしたので、安心してお見合いできるようになりました。
 相手は公務員で、奥様をガンで失った方です。
 息子さんいるが、同じく結婚していて、独立しているので、安心ですね。
 やさしい人ですよ。でも、私たちは金銭的には互いに独立しています。
 彼は定年退職してもう3年。安定した年金で暮らし、
 私は私で一日置きに6時半から夜11時まで働きます。
 月収ですか。一月、手取り4000〜5000元かな。
 今は彼の勤務先が配分してくれた2DKの家に住んでいますが、
 我が家の120平米の庭の改築工事をしている最中です。
 その費用はもちろん自分で準備しますよ。」


運転暦21年。自らの人生を様々な体験で走りぬきました。
苦労を苦労とは思わず、誇り高く、力強く、自力で生きてきた一人の女性の物語でした。