梁思成氏の銅像を奈良に

 通訳のお手伝いで掲題の梁思成銅像の除幕式とその後の一連のイベントに行ってきました。

 梁氏は清末の改革派思想家・梁啓超の息子で、1901年東京の生まれ。12歳の時に神戸から帰国。妻の林徽因氏は才色兼備の才媛で、中国初の女性建築家としても知られています。一心同体の二人は、古代中国建築史を書くため、全国各地を歩き回り、測量、製図、記録をしていました。
 新中国成立後、首都北京の都市計画において、「古い町をそのまま残して、古都の外に新たに新しい街を作る」ことを政府に提言していました。結果的に、北京の城壁を守りきれなかった悔しさから、「わが身の肉がえぐられ、自分の肌が剥ぎ取られた思い」で慟哭していたことで知られています。最近は、中国で急ピッチに進んでいる都市開発の高波を背景に、二人の名とその古代建築保護と街づくりの考えは再び注目言及されるようになっています。
 ちなみに、中国の国徽や天安門広場に聳え立つ「人民英雄記念碑」は二人がリーダーとして設計したもので、また、人民大会堂の設計にも二人で参加したということです。
 梁氏夫婦は米の大学で学位を取り、帰国し、英語に精通していました。そのため、アメリカでの人脈も豊富で、1947年の国連ビルの設計に梁氏も参加していたようです。
 梁氏は「文化財は人類共通の宝物」という考えの下で、古代文化財のある町を書き記した中日両国の空爆回避地図を作成し、戦時下の重慶で連合軍にそれを渡したことで、「古都の恩人」としても知られています。

 天安門広場の東側にある国家博物館は改装工事がまだ終了していないが、今回は特別展として「梁思成の歩んできた道」を展示しています。
会場では、パネルの一枚一枚をじっくり眺めて歩きわたっている小柄の女性がいました。白髪で70代なのでしょうか。セレモニーが始まる前、梁氏の親族の間で親しげに言葉を交わしていた方でもありました。

 おばあちゃんととても話をしてみたい。しかし、どう話を切り出せば良いか、迷っていましたが、とりあえず当たり障りのない言葉をかけてみました。

 「幼年時代から青春時代、そして年が召された後の写真が一度に見ると、人間って、あっという間に年が取ってしまうことを実感できますね」。

 おばあちゃんは「なんとつまらないことで嘆くのだろうか」と思っていたようです。
 「そんなことよりも、人間の内在を見なければならないでしょう」と返事が戻ってきました。
 見ながらしゃべり始めて、今度は二人で立ち止まったのは1947年・梁氏が国連ビルの設計でニューヨークに滞在していた時の写真でした。

 「40年代の時はまだ次から次へと成果が出ていました。それが50年代に入ると、もう何も出ません。何故か(考えなければならない)。
 彼の思想が批判されていた中で、国徽や人民大会堂の設計に追われていました。自己批判をしながら、政治的なプレッシャーの中で日々の仕事に追われていました。落ち着いて学問できる環境にありませんでした。悶々とした気持ちがずっと続いていて、それが彼の死ぬ前まで続いていました。」

 おばあちゃんはなかなかシャープな人でした。
 「あなたは80后?何?70后ですって。まあ、所詮似たようなものでしょう。おそらくあなたの年齢層に言っても、伝わらないことですけど。
 梁氏が国から表彰されるようになったのは、死後の1980年代。それも、大昔にやり遂げた仕事で表彰されていたのです。」

 つんとしている話し方。しかし、その話した内容から彼女の心の痛みが伝わりました。
 梁氏は今は見直されるようになりましたが、だからと言って、過去の悲劇はもう忘れても良いとは決して思っていません。毅然とした態度でした。
 蛇足ですが、後に知ったことですが、おばあちゃんは梁氏の息子さんの妻でした。

 ところで、梁氏一家と日本のかかわりに関して、幼少時代、須磨海岸で漁師に水泳を教えてもらい、日本の人たちに親切にしていただいたことなど、1964年6月号の『人民中国』に寄稿していました。寄稿の中で「父親に奈良に連れられていった時、ある寺院の修繕工事の現場で、1銭を出してかわらに名前を書いて寄進した」こともあることを紹介していました。

 しかし、抗日戦争が始まり、上海、南京の陥落で梁氏一家も戦火を逃れるための逃避行を始めました。紹介の中で、私が気になったのはこのフレーズでした。
「1937年、梁氏一家が長沙の町を離れた直後に、日本軍が攻めてきたという危ない目にも遭った」。
 気になった理由は、同じ体験をしていた人を知っているからです。親戚のおばあちゃんで、南京出身の緞子屋の娘は父親と病弱な兄一家および付き人など十数人でした。同じ逃亡の人ごみの中には、梁思成氏一家もいたということになります。

 梁氏がこの世に残したたった一つの詩と言われている句は、とても分かりやすくて、勢いが感じられるものです。
 1965年、桂林のある山に登った時に詠んだ作品だそうです。

    登山一馬当先
    岂敢冒充少年
    只因恐怕落后
    所以拼命向前

■参考記事http://sankei.jp.msn.com/world/china/100612/chn1006121906004-n1.htm
「奈良の恩人」銅像が完成 梁思成氏 北京
 
 第2次大戦の際に奈良、京都の爆撃回避に尽力したといわれる中国の著名な建築史家、故梁思成氏の銅像がこのほど完成し、12日に北京の国家博物館で披露式典が行われた。銅像は10月末、「平城遷都1300年祭」を行う奈良県に寄贈される。
 式典に出席した奈良県の窪田修副知事は「梁先生は奈良を守ってくれた恩人。日中友好の歴史をあらためて確認できて大変感謝している」と述べた。銅像は県庁近くに設置される予定。
 梁氏は1901年、日本生まれ。米国で学び、中国に帰国後、古代建造物の研究に従事。大戦末期には歴史的建造物の重要性から奈良、京都を爆撃しないよう米軍に進言したといわれる。(共同)