スケッチ@新上海人的今

5月中旬に、一年余りぶりに上海を訪れました。その時の見聞です。


〜W君のストーリー〜

1年余りぶりの上海。前回にも増して、コンクリートジャングル化が進んでいる。あちらこちらの道路は真ん中に囲いが作られ、勢いよく工事が行われていた。2010年の万博に向けて、地下鉄の路線が現在の5本から十数本に増やされるとかと聞く。
 飛行機で約2時間。機内でぐっすり寝ていたせいもあり、あっと言う間に到着。1400キロの距離を移動した実感が薄く、旅の新鮮さが味わえないのを残念に思う。ただ、虹橋空港を出た瞬間、鬱蒼とした緑の中から漂ってきた懐かしい木の香りにほっとした。

 
上海は何回来ても、バンドを一目見てみないと来た実感が湧かない


「移民したい!」
 2年ぶりに同郷の人に会って話ができた。
 W君、29歳。上海で、ソフトウェアの代理販売の会社を経営。現在は10人の従業員を雇っている雇用主。ぴかぴかのシトロエンメーデー前に、24万元で購入したばかりだった。8月に結婚予定の彼女を連れて会いに来てくれた。2年前に比べ、服装のセンスは洗練されている。目尻のシワの数が少々増えたものの、相変わらず明るくて、ユーモアに満ちた性格だった。安徽省訛りの共通語も変っていない。しかし、W君が開口一番に発した言葉に驚いた。
 
 「今、海外へ行くことを考えている最中だ。移民してという意味で」。
 一人息子のW君は、傍から見れば、行き過ぎと思えるほどの親孝行者。当初は、北京から上海に移ったのは、上海のほうが故郷に近く、いつでも帰れるからだと言っていた。そんな彼が、自ら進んで海外移民したいと言い出すなんて。
 しかし、彼には彼なりの理由がある。
 「取引のほとんどすべてに、バック・マージンを渡している。中国国内の不正や腐敗に閉口した。このまま居残っていても、将来どうなるか分からない。まともなビジネスはやりにくくて、しょうがない」。
 「セーフティネットが大きな心配だ。社会保障基金まで任意に投資に回されるなんて、僕が年をとった頃、世の中が果たして面倒を見てくれるかどうか、誰も予測できない。まあ、良い方向に向っていくだろうと信じているけど、万が一、国は努力したが、結果的に庇えなかったら、僕らの生活はどうなる?やっぱり自分に頼るしかないよ。」
 「それから、教育も問題だ。今の中国の教育は最悪だ。子どもを育てる上にも、海外が良い」。
 「両親のことは、どうせ上海にいても、一緒には暮していない。海外に行っても、長く帰省できるし、親に来てもらうことも可能。一緒にいる時間って、そんなに変らない。」
 「やむを得ない選択だ。二本の足を同時に使って、歩かなくちゃならない。30も近くなると、今後の人生を考えざるを得ない。ダブル保険をかけなくてはね。」
とは言いながらも、W君はそのまま、移民先の国で一生を終えるつもりはもうとうない。「国籍が取れたら、直ちに中国に戻る。お金を稼ぐには、やっぱり中国が一番良いと思う」。
 
 この8月に式を挙げる予定。子作り計画も考えている。自分たちの老後だけでなく、子どもの代のことまで視野に入れて人生設計を始めている。相変わらず、本音を隠さず打ち明けてくれたW君だった。そんな彼を責めることはできない。理解もできる。しかし、上辺では栄え、活況を呈している中国の大都会。俗に言うサクセス・ストーリーを成し遂げた若者のポピュラーな思考を目の当たりにして、寂しい気持ちが抑えきれなかった。


ウサギ小屋ならぬの、その名の通りの「鳩子篭」


人一倍の聡明さと努力

 W君はなかなかの秀才。地元の高校をトップの成績で出、北京の大学でコンピューターを専攻。卒業後、北京のソフトウェア会社に一旦入社。地方の一般職員の家に生まれ、北京も上海も特にサポートしてくれるコネクションはなかった。すべて、独自の才幹と頑張りで、ゼロからスタートした。
 数学が得意で、物覚えも速く、何を習ってもすぐに習得する。長年のセールス体験で鍛えられたものだったと思う。表現力が豊かで、楽しい会話を交わしながら、他人を自分の構想に引き寄せてしまう不思議な力を持っている。
 大学を卒業した年は、中国のITバブルの時期だった。初任給は5000〜6000元、当時から高級取りだった。が、学生時代から同級生とソフトウェアの開発に乗り出した彼は、そんなことで満足できなかったと思う。2001年、拠点を北京から上海に移して、ソフトウェアの代理販売を行う会社を設立し、従業員2~3人からのスタートだった。
 会社経営はITバブルの崩壊も経験し、苦しい時期もあった。それが、昨年、従業員10人、個人の年収が50万元になったと打ち明けてくれた。
 「株には投資してないの?」
 こう聞いたのは、昨年後半から中国に個人投資ブームが起きたからである。
 「していない。昨年は、株に30万元を投資したが、結局15万元の大損が出た。そんなことがあったら、今は株を購入したくない。」
 しかし、資産運営をあきらめたわけではない。上海でマイホームとマイオフィス用の不動産を二件所有し、古巣の北京にも新築マンションを買っている。北京の不動産は昨年一年だけで一平米あたり1000元(約1万8000円)以上も値上がりした。
 「移民したら、先ずは疲れきった体をしっかり休ませたい。子育てもしたいし。家賃や貯蓄で、2~3年は持つと思う。使い切ったら、また稼げば良い。お金は稼ごうと思えば、いつでも稼ぐ自信はある」。
 
 ところで、柔軟な頭の持ち主の彼は、今、まったく違う分野に進出したと言う。
「一年ほど前に、絞りたてジュースの小さな売店を始めた。これからブランドを有名にして、できれば、フランチャイズ経営にしようと考えている。」
 ITからジュースの店?余りの急転回にこちらが驚いた。
 「ITは予想以上に厳しい産業で、一や二を争うような実力を身につけないとやっていけなくなる。それは僕には無理だ。ビジネスは、もうこれ以上伸びることも期待できない。それなら、一層のこと、ほかの分野に転じてみようかなと最近は思ってるんだ。」
 北京出張した際、喉が渇いた時に偶然にあるフルーツバーを目にし、食べてみたらたいへん美味しかった。それがきっかけになったと言う。ノウハウは「盗み取り」したもので、もっぱら専門店を通い続け、客足を分析し、メニューや接客ぶりをこっそり観察してはメモした。おまけに、店長までその店からヘッドハンティングしたそうだ。
 「月給を今までの1200元から1500元にするからと誘うと、喜んで付いてくれた」。
場所はバンド。店構えは十平米そこそこ。家賃は一月8000元。店長と、4人の従業員が働いている。設備投資や準備で8万元かかり、順調に滑り出した。
 「メーデーの一週間だけでも、4000元の利益が上がった。サラリーマンをやりながら、苦労せずに、眠っている資金を活かしたいと思う人にはお勧めの方法だ。今、友達にも同じブランドで店を開こうと誘っている。いつか、全国でも名の知られるチェーン店になれば、私はもうITを完全撤退する」。
 冗談半分のようだが、眼差しから真剣さも伝わってくる。将来はどうなるか、今予測するのはまだ早い。



上海らしさを探して


「五六にはなりたくない!」

 では、W君の上海での起業を励まし、また、上海や中国で暮らすことを不安だと思わせたものは何だったのだろうか。話をしているうちに、「50問題」「60問題」が浮上した。
上海では、50代、60代の市民の待遇改善問題を「50(ゴ・ゼロ)問題」「60(ロク・ゼロ)問題」と言う。レイオフ者が多い層である彼らは、計画経済の時代、国営工場で働きいていた。が、その後、国有大中企業所有制の改革で真っ先に時代から切り捨てられた。なかでも50代は、中学や高校時代に文革に遭い、学校教育がそのまま中断、農村や辺境に行かされた。改革開放後、ようやく上海に戻り、やっと普通に暮らしていけるとホッとした矢先、一時帰休者になった。後ろ盾がなくなり、最低生活保障で暮らさねばならない。青春も人生も時代に翻弄された世代だ。

 昨年11月、フジテレビで放送したドキュメンタリー「小さな留学生のシリーズ」の最終編・『泣きながら生きて』(張麗玲さん作品)の主人公もそういう一人だった。娘をアメリカの大学に送るため、教育費稼ぎに、日本で不法滞在15年間をした上海の男性の物語だった。「子どもの運命を変えるには、他の選択肢もあるはずなのに」、と首をかしげた視聴者も多かったはずだ。しかし、現地に来て、話を聞いてみると、当事者にとっては、必死の選択だったに違いなかったことを改めて分かった。
 「ゴゼロ、ロクゼロみたいに暮らしたくはない」。W君も彼らの話題をすると、見下す口調になる。彼は上海に来たばかりの頃、レイオフ者になった上海人の家を借りて住んでいた。
 「全部で二部屋、40平米の家だった。その中の1ルームを僕に、もう一つの部屋は20代の息子と三人家族で暮らしていた。信じられない狭さだった。」
W君が、見下す口調になるには、もう一つの理由がある。
 「それなのに、大家は妙に上海人ぶって、態度がでかかった。」
彼をその後、上海で踏ん張って誰よりも成功者になりたいと決意させたには、このときの微妙な心理が働いたに違いない。
 
 話を本筋に戻そう。50代や60代の境遇を目の当たりにしたW君は、「彼らのような人生を送りたくはない」と自らを鼓舞したに違いなかった。しかし、突き詰めて考えれば、50問題や60問題は国の作り出した社会問題である。いくら自分が努力しても、ある日突然の変化ですべてを失いかねない。
 また、昨年下半期、上海市社会保障基金が流用された事件が明るみになった。前上海市書記の失脚の引き金となる事件だった。政治背景などはさておいて、一般市民にとっては、自分の生活にふりかかる変化で、大パニックだったようだ。
 W君も、「社会保障基金まで流用するなんて、もはやどこも信じられない」と言う。「移民」は、時代の流行という側面もあるかもしれない。同時に、自力で奮闘してきた人の寂しさとやるせ無さから出た、自らを守ろうとする行動かもしれない。

 W君の考える「移民」には、転入先の国や社会への愛着心もなければ、その社会で生きていく上の、尽くすべき義務があることも脳裏にはない。彼は、今までがむしゃらに仕事をし、ひたすら富を産ませようと頑張ってきた。移民はその勢いに乗り、たどり着いた経過点のようなものだ。
 ほんとうに移民手続きに踏み切るか切らないか、あるいは、それが成功するか、しないかは別としても、W君の人生にとって、様々なことを考える良いきっかけとなるに違いない。
 中国の社会もこうやって一人一人の成熟に伴い、社会全体が少しずつ成熟していくことを期待している。

 蘇州河畔
 姥姥、妈妈和宝宝的外滩記念