スケッチ:北京のタクシー運転手<商売人から運転手へ>

★★夜、仕事の合間に、語言大学で行われた大学生によるDV大会
に行ってきました。
面白い面白い。
コスプレーを生かしたアニメ系もあれば、
民族チックな特色を生かした報道系、
ラブストーリー系、
投げ出しを忠実に記録した「燃え尽き」系、
お笑い系、などなど。
個性が異なっていて面白かったです。


日本語学部出身でない学生の参加もあり、
抜群のお笑いのセンスを生かした抱腹の作品でした。
それにしても、日本語学部の子の日本語の上手なこと。
頼もしい後輩たちです。
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★★北京のタクシーの運転手さんにはつわものが多い。
話が面白かったり、話術が上手だったり、
すさまじい人生を歩んだりして、十人十色です。
これから、気まぐれに、
タクシー運ちゃんのスケッチをしてみます。


今晩、語言大で乗ったタクシーは、
「世界最大手」を誇る北京のタクシーグループ
(計1万6千台)に所属しています。
運転手は、40代後半の男性。
Q:今日も商売は繁盛してますか。
A:いや、まったくよくないね。地下鉄五号線が開通したら、
  一気に減ったね。いつも、南城で待っていたけど、
  五号線の駅のすぐ近くだからね。だから、今、新たしい陣地を
  開拓しに来たのさ。けど、こっちも流れてきた車でいっぱいだよ。
(北京のタクシーの数は6万7千台だと言われている。)


(以下は運転手の語り)
運転手を規制する規定がたくさん設けているけど、
タクシー会社の経営者を規制するものはあまりないね。
最近は、月々の使用代金を6000元に引き上げた会社が出た。
しかも、マネージャーの態度のでかかったこと。
「やりたくない人は、さっさとやめなさい。
 運転手になりたくて待っている申込者が行列している」、と。


<仕事はきつく、純収入は夫婦で5000元未満>


うちの会社は大手なので、そういうことはしていないけど、
仕事はきついな。
夫婦二人で請け負っている。昼間は妻、夜は私が当番する。
毎月、会社への上納金は7500元。
コストを差し引いた後、毎月の手取りは
夫婦二人足して、5千元にもならない。
このお金をゲットするには、
家族団らんの時間が少ないことを代価にしている。
私たちは死に物狂いになって働くほうではなく、
夜はだいたい、1時ぐらいで家に帰る。
人によっては、自分が当直したシフトの時は、
一気に16〜7時間を運転している。
こんなつらい仕事はもうやりたくはない。
会社からは最近、契約延長を迫られているが、
もう延長はしたくないのだ。


<往時では、意気揚々の商売人だった>


Q では、今度はどのような仕事をやるのですか。
A 昔、ぼくはステンレスの取引で成功を収めたことがある。
 しかし、うっかり仲間を見間違えて、
 品物も儲けも何もかも騙し取られて、
 その人はそのまま行方不明になった。
 ステンレスの商売というのは、
 コネなしの孤軍奮闘ではできないものだ。
 ヤツと小さな取引を数年も一緒にやったことがあり、
 支障なく協力してくれたので、
 今度はたいへん大きな商談になったので、
 同じように彼を信頼したら、その羽目になってしまった。
 もう十年ほど前のことになる。
 最初の二年ぐらいは、彼を探し続けていた。
 警察にも協力してもらったが、だめだった。 
 お金ばかりがかかり、一向に効果はなかった。
 「深せんにいる」、と情報をキャッチしたら、
 すぐに警察に通報して、一緒に深せんまで南下したこともある。
 警察の費用、航空運賃から宿泊、食事まで、すべて僕の負担だった。
 そうでもしないと、一緒についてくれなかったのだ。
 それにしても、とうとうつかめなかったのは、
 警察は最初からこんなことでがんばって、
 役目を務めようとは思っていなかったからだと思う。
 警察の力が足りないということもある。
 結果的に、十数万もお金をはたいたが、何にもならなかった。
 あきらめるしかなかった。
 今はもうこんなことで悔しんだり、
 くよくよしたりしてもしょうがないとあきらめがついたので、
 気持ちはとても楽だ。
(確かに、運転手の語りも表情も穏やかだった。) 
 そういうわけで、99年に僕はタクシーの運転手になったのさ。
 これから、チャンスがあれば、
 やはりもう一回商売をやろうかなと思っている。
 

<糟糠の夫婦:貧しくなってから得たもの>


商売の失敗で、人生が大きく転換した。
色んなことが変わってしまった。
妻との付き合い方までがそうだった。
お金のある頃は、妻なんで、大事にはしなかったな。
しかし、一文無しになってから、
妻は一緒になって働いてくれた。
私を恨む一言もなく、苦労をいとわず、一緒に働いてくれた。
心の支えだった。
妻は自分にとって、こんなに大事な存在だったのか、
初めて思い知った。
この前、妻の誕生日の時に、「お土産何がいい?」と聞いた。
妻は涙が出そうになって喜んでいた。
「商売がうまくいっていた時、一度だって、
 あなたからこんなこと聞いたこともなかったけど、
 嬉しいわ」と言っていた。
逆境に置かれた時にこそ、妻の良さが初めて分かったのだ。
今もたまに昔のビジネス仲間たちと集まっているが、
「みんな、目の前の幸せ、身の回りの人の幸を大事にしなさいよ」と
いつも彼らを戒めている。


(「災いは重なるものだ」ということわざがあるが、
 運転手の家はここ数年、ショッキング的な出来事が多かったようだ)


<もう一つの挫折:息子さんのストーリー>


僕には22歳の息子がいる。
サッカー選手だったが、思いがけず、試合で怪我をし、
1年病休した後、2年前からスポーツジムのコンダクターになった。
体は完治したが、一年の休みで、チームメンバーとの差が大きくなり、
もう一度プレーすることができなかったからだ。
言われてみれば、あの子がかわいそうだったと思う。
スポーツが好きで、6歳からサッカーを初め、
16歳で雲南のプロチームの青少年チームに入隊した。
しかし、スポンサーシップのことで、
入隊するやいやな、たちまちチームは解散の羽目になった。
今度は幸い、上海のプロチームに入れたものの、
わずか2年で、大怪我をしてしまった。
やっと、中国サッカーリーグの試合でも補欠選手になり、
試合にも出られるようになった頃だった。
夢が粉々に砕かれた。
私と妻もがっかりした。ようやくこれから頭角を現して、
一人前の選手の手前まで来て、
投下した教育費もやっとリターンできる見込みが現れてきたのに。
ビジネスで儲かったお金の一番の投資は、
息子の養成だった。かれこれ、100万元が使ったと思う。
幸い、息子はまだ若く、現状を冷静に受け止め、
ジムのコンダクターとしての仕事にやりがいを見出している。
何よりのことだ。


車が目的地に着いた。
お釣をもらったついでに、正面から運転手さんの顔が拝見できた。
落ち着きのある、ビジネスマンらしさが残っていた。
夢はきっとまだあきらめ切れていないと思う。
10年前に思いがけず、くじいた彼の人生、
もう一度、再起できるのだろうか。
ひたすら祈っているのみだ。