黄山で自分を見つめる

出張で黄山とその周辺へ行ってきました。
良い下見ができました。
今度こそゆっくり登りに行きたいです。
故郷の山なのに、やっと初めて登りました。


周辺の古村落の見学は、
時々時空の錯乱を感じさせる奇妙な感じに襲われ、
夢かうつつか、現実か幻想か、
そして、今の自分と子どもの頃の自分、
観光開発に向けて突進している農村と
時間がいつまでもストップしたままの農村との間を行き来する
不思議な体験でした。
ロマンチックでのどかな田園風景は心を癒してくれましたが、
一方では、重くのしかかってきた何かも感じ、
圧迫されて苦しく感じ、早く脱出したい気持ちもあります。
居心地の良さと悪さ、この両者はどうや私の中に並存しているようです。
古代の中国、地方の中国、中国文化の底流で力強く
生きている何かに触れ、自分自身を見つめる旅のようでした。


荘厳な祠堂には、観光客向けに先祖の位牌を置かれていました。
しかし、もうそこでは長い間、祭祀は行っていないはず。
文革の時代に、祠堂は建物がしっかりしているため、
倉庫にされたり、学校や村のオフィスに変えられたりして、
役立ってきました。
目に見えてきたのは、あくまで生活していた痕跡に過ぎず、
生活そのものは見られている間に、どんどん遠ざかっていたようです。
かつて村落の上をさ迷ながらも、子孫たちを見守っていた祖霊は、
その後、どこへ散ったのでしょうか。
復元されても、ちっとも恐ろしく感じない位牌を見て、
思わずこう思ってしまいました。
文化や歴史的価値ではまったく匹敵できないものですが、
私の村ー祖父母の村の祠堂や堂心に置かれた位牌や写真のほうが、
よっぽど恐ろしい威力があったように思います。

かつて、豪華絢爛だった安徽豪商の屋敷は
今や空家になり、
村の共有財産にされたりしたところもあれば、
子孫が今でも住み続けているが、
往時の誇らしさがすっかり消え、
彼らの顔や表情には開拓精神や何か自ら作り出す意気込みは
何も伝わってきません。
歴史の断層を感じせざるをえません。



中国人の内面を知るには、
安徽省南部の村落の歴史やそこに映し出された
ここ数百年来の文化的風土の考察が必要ではないかと思います。
今の中国人の思考・行動様式の中に染付いているものが
あるからです。
故郷を離れて久しい自分が、
眼前に現れた自然風景や古村落、牌坊に触れ、
忘れて久しい思い出が蘇りました。良い意味でも悪い意味でも。


●山頂のホテル・夢の北海賓館●


私は長い間、黄山に縁がなかったが、
小学校の時から、ずっと聞かされたホテルの名前があります。
北海賓館です。
父の教え子がそこで就職することになり、
黄山に来たら、ぜひここで泊まってください」と
人づてにメッセージが耳に聞こえたからです。
まだ、中国は親の仕事を子どもが受け継いでやるという「頂職」制度が
あった頃の話でした。その教え子も父親の後任として就職した人でした。
しかし、とは言いながら、その人が高校卒業後、
父とは一度も会っていません。
そういうわけで、今回の山頂での泊まりを北海賓館にしました。
残念なこと、父の教え子は
数年前に交通事故に遭い、
会社を早めに定年して、今も家で静養中です。
30年前からうわさで聞いたホテルの前に立つと、
それだけで、感無量でした。


●ふるさとのなまり●
黄山は私の子どもの頃の村から300キロほどあり、
山が多いため、人々のアクセントはまったく異なります。
しかし、純粋な私のふるさとの土地のなまりが時々聞こえました。
食糧と生計を求めて、やってきた省内の移民です。
移住して、二世や三世になる人も多かったが、
言葉が結局、変わっていません。
皆さんは、移住先の方言はもちろん話せるが、
家の中では元のままの訛りで
生活しているようです。
これにも、何だか感動しました。