広島ゆかりの農民工代表

 総数2億1千万に達する農民工都市戸籍のもたない出稼ぎ労働者)。その農民工から、初めて全人代の代表が選出されました。これまでの全人代代表には、農民工上がりのホテル経営者代表がいましたが、現役の農民工から代表を選出したのは、今年からスタートした第十一期全人代が初めてです。
この三人とは、重慶の康厚明さん(建築)、広東の胡小燕さん(製造業)、上海の朱雪芹さん(アパレル)。
 十三億人の注目を浴びえている三人。その中の一人は、なんと、日系企業に働いており、日本での研修生体験も持っている代表です。

 朱雪芹さん。穏やかで、落ち着きのある31歳。1歳半の男児の母。上海の日系紳士服メーカーの労働組合の副主席。その朱さんにCRIのスタジオに迎えることができました。

 
■18歳の出稼ぎ、姉のいる工場へ
 1977年、江蘇省徐州市の農家に、三人姉弟の次女として生まれる。1995年、18歳で、家庭の経済事情で高校を中退して上海への出稼ぎに出かけた。向かうところは、現在も勤務し続けている日系紳士服工場。姉が一足先に採用されたからだった。
 人一倍の努力家で、ミシンの使い方から習い始め、不慣れで手が何度も針で痛めたが、あきらめることなく、スキルの習得に一生懸命だった。三年後、努力ぶりが認められ、会社の訪日研修生に選ばれた。三年間、広島での研修生活の始まりだった。
 会社にとって、親会社の日本工場に研修生を派遣する制度があったが、それまでは長崎一社のみだった。朱さんは広島工場に派遣された最初の三人の中の一人になった。
 「うれしくて、夢のようだった。「まさか夢じゃないよね」、隣の人に、『私をつねってみてね』と頼んだ。痛みが伝わり、夢じゃないことが確認できた。」
 しかし、故郷の母親からは引きとめの連絡が入った。「丸三年も行ってしまう、嫁にいけなくなるので、やめなさい」、と。しかし、「高校中退の自分だって、今回が初めての出国にある。それまで、出国は自分と縁のない、望めない出来事だった。「お嫁にいけなくても、私は行ってくる」と決意した。


■広島研修
 研修先は尾道市御調町の工場で、日本語はゼロからのスタートだった。「どうやって言葉を覚えればよいか」。考え付いたのは、子供と友達になることだった。余暇になれば、工場の近くにある小学校に通っていた。最初は守衛さんから怪しまれ、入れさせてはくれなかった。「私、日本語、上手に、話たい。子どもたちと、遊びたい」。片言の日本語に身振り、手振りで何度も食い下がり、守衛さんがついに譲ってくれた。
 そのしばらく後のことだった。通学時間になれば、工場の外側から、「シュエチェン(雪芹)姉さんいますか」と子どもたちの呼び声が響き渡り、工場側の人が驚いた。
 3年間、一度も中国に帰ることはなく、工場で先進な裁縫技術を覚えることができ、大満足の様子だった。ただし、尾道以外は、宮島神社に紅葉饅頭がイメージに残っているが、広島以外の地方はほとんど行くチャンスがなく、イメージに薄いようだ。
 広島の皆さんとは良い関係を作ったようで、「〜さん、〜さん、〜さん」とスタジオでお世話になった人の名前を頻発した。
 三年も帰郷せずに、がんばり続けた。尾道の子どもたちに仕込まれた日本語は、今、日本側経営者と従業員を代表して、賃上げの交渉ができるほどまでに上達した。



全人代代表に当選、眠れぬ夜が続く
 昨年の下半期に、工場所在地の普陀区組合から一枚の表が手渡された。「これに記入してね」と言われた。よく見ると、全人代代表立候補用の表だった。「まさか当選するわけがないだろう」と気にしないでとりあえず記入して提出した。
 月日が流れ、08年の春節前になった。1月末に、テレビのニュースを見たら、上海市全人代代表リストが公表され、自分とそっくりの名前が聞こえた。「何だ、同じ苗字の人だったね」。そうばかり思っていた。ところが、続々から次へと祝賀の電話が入り、「当選したのは他人ではなく、自分だったのだと初めて分かった。」
 名誉に感じた半分、大きなプレッシャーに襲われ、眠れぬ日々が続いていた。春節休みも挟んでいるし、一ヶ月ほどの時間で、どうやって人民代表の責務を果たすか。現場を駆け回って、各種様々な業界の農民工たちとの座談会や聞き取りを始めた。組合組織の協力もあり、約一ヶ月の間で、十数回のヒヤリングができた。
 「上海には400万人の農民工がいる。彼らの訴えを医療、老後保険、技能訓練、子ども教育、有給休暇制度など五項目の提案にまとめた。
 大会の分科会で、今や国家副主席に選ばれた習近平氏を前に、落ち着いた口調で提案を発表することができた。
 任期が5年である全人代代表の目標は?「提案がすべて採用され、実現できること」。そして、最終的には「戸籍制度の緩和」を期待している。
 都市と農村を二分する戸籍制度で、農民工は都市部住民と医療や年金積み立て、子どもの教育などにおいて、平等に社会福祉を享受できないことを是正したいという。
 取材が終わり、携帯を手に、ひっきりなしにかかってきた電話に、落ち着いた話しぶりでてきぱきと応対した。生まれ故郷の地元政府の長官もわざわざ会いに北京にくるとか。



■家族の支えに、仲間の期待
 2001年、広島帰りの朱さんは、両親の目から見ると、もう故郷の村で相手を探すことができない年齢になったという。故郷に戻って結婚してほしい望みをあきらめ、上海人青年とのお見合いに同じた。
 相手の仕事は「城管」(都市部の秩序維持。警察に協力して、町並みの秩序を維持する守衛)。「城管」は、無免許で街角で行商する出稼ぎ労働者を締め出すイメージが強く、「農民工の反対側の立場にいる人間と結婚してしまった」と笑った。
 仕事で忙しい朱さんを力強く支えているのは旦那と姑。子育てから家事まですべてやってくれる。「子どもと一緒にいる時間が少ないので、なついてこない」、寂しさは隠さない。
 しかし、「最近は、テレビで私を見ると、ママ、ママと呼んでいる。私の前では呼んでくれなかったけど、テレビを指しながら、ママと呼んでいるみたい」。嬉しさも隠していない。
 全人代代表を勤まるには、このほかに、仲間の期待もあると言う。
 「北京へ来る前、工場の仲間たちが嬉しさの余に、大勢の人が駅まで見送りに来てくれた。出し合ってお金で、私にICレコーダーのプレゼントまでしてくれた。テレビからも大会の様子が聞けるが、あなたの録音を聞くと、より親しみが湧くから、頼んだね、と皆は言う。皆の情熱に心打たれて、涙が出そうになった。と同じに責任の重さを痛感した。」
 

 仕事について、今後の計画は、「朱雪芹」カウンターという優良サービスが提供できる販カウンターの設置に尽力していくという。会社の紳士服は一部、中国国内でもブランドをつけて、国内市場で売っているので、優秀なセールスマンを集めて、各地のデパートで「朱雪芹カウンター」を設置して、販売拡大に努めるという。
 全人代代表のブランド効果を最大限に発揮していく商魂が滲み出いている。



 中国の農民工の人数は2億1千万人に達している。今大会の3人の代表は、平均すれば、7000万人を代表することになる。
「とても物足りないが、農民工代表が置かれたこと自身に大きな意味がある。」
 何をしても、少しも慌てる様子はない。理路整然で、度胸が据わっている。口数は多くはないが、穏やかな笑顔で豊かな感情を表現している。大将そのものだった。
精錬されたピンクのスーツ。真っ赤な全人代代表の名札が胸元を鮮やかに飾っている。