徒歩行進中、臥龍のパンダは無事+記者ブログの語る温総理+唐山記憶

北京は久しぶりに晴天になり、気温も少しは上がりました。
一昨日と昨日の雨で、気温が冷え込んでいたのを実感しました。
それが、被災地では雨が降り続けていて、気温も下がっています。
今晩も眠れない夜が続きます。


今朝、取材で「東四」に行ってきました。
9時半ころで、第一陣の募金がすでに終わったようで、
行動のすばやさに感動しました。


CCTVは今晩もずっと生放送が続いています。
現地の映像もありますが、
ゲストと繋いでの電話インタビユーなどが多いです。


夜11時38分頃、CCTVが報じたところによると、
通信、電気、道路がすべて不通になっている
震源地のブン川には、徒歩で向かっている
救援隊(解放軍)は県庁所在地まで9キロのところにまで
きているという良いニュースがありました。


一方の四川衛星テレビの放送もたいへん良かったです。
現場の生々しい映像がふんだんに使われていました。
臥龍の様子はまだ分からないようですが、
パンダ研究基地のパンダが無事だということだけが発表されました。
(@夜24時)


◆温総理@現場◆
http://blog.sina.com.cn/s/blog_51a17bc001009kbq.html
現場にいる記者が目撃した様子を文字で伝えました。
テレビの画面で出した総理とは異なるイメージがあります。
13日10:07〜11:37分、都江堰の救助現場(学校?)での記録のようです。


悲惨なシーンを見て慟哭。
救助現場にかけよって、自ら手を出して学生の救助活動に参加。
が、雨天の中、滑って転んでしまう。
腕に怪我を負い、血が出たのに、
手当てしようとした医師たちを押しのけてしまう。


一方、ホウ州には10万人が山中に封じ込められたままで、危険である。
しかし、土石流や山崩れのため、工兵は何度も橋をかけようと試みたが、
失敗した、と前線から電話が入る。
「どんな代価を払っていても、ホウ州まで行け!」。
 電話のこちらで啖呵を切る。
雨が小さくなり、パラシュート部隊はブン川に向かってまもなく出発する。
「あなたたちに言いたいことは、ひと言しかない。
 あなたたちは人民のために養ってもらっている。
 どう行動すればよいのか、これを思い出して、
 自分たちで考えなさい!」

……

テレビでは、演説している総理、皆と握手している総理しか出ない…



■唐山の思い出
 友人の康さんは唐山生まれ。1976年7月28日の震災時、彼女は4歳でした。家は倒壊したが、幸い、家族は全員無事でした。
 「今回の地震は唐山以上のものだった。しかし、政府の対応はしっかりしている。」唐山から電話をかけてくれた両親はこのように言っていたといいます。


 4歳の記憶は今も覚えていると言います。
 「テントでの暮らし、死体の山、空から投下された救援物資」。
  そして、「烙餅(小麦粉でできたクレープのような食べ物)は投下されたが、焼きたててからすぐガーゼに包まれたようで、夏の高温の下、空けたはすでに饐えていた」、
  さらに、「食べ物に飢えていた人は空からの投下があると聞いて、救援物資を我も先に手に入れようと思って、落ちてきた物資に当たり死んでしまった人もいた」。


 24万人の命が奪われた唐山大地震地震で得た教訓はどのぐらい生かされているのか。


 「住宅の耐震強度だけはしっかり要求されている。しかし、それ以外のことは果たしてどうなるのか。傷が治れば痛みが忘れてしまったのではないのか」。
本当にそうだったのか、意外な話が聞こえました。


 「いつまで経っても、唐山の町を地震とつなげて見るのでは困る、そのような考えがあるようだ。一昨年の30周年記念に、地元テレビが記念番組を作った以外、唐山は極力、地震の記憶を薄れようとしているようだ。地震の町でイメージが定着すると、投資に影響が出ることが懸念されているようだ。現に、唐山市外資が少なく、製鉄所など一部の地元企業しかない。」


  しかし、同じ悩みは日本にはないのでしょうか。日本人の同僚は、「地震が起きても大丈夫なように街づくりをしている。そのようなことを堂々とアピールできるようになれば、それはそれでイメージアップになる」、「日本中は地震が起きやすい。そんなことを言うと、行く場所がなくなる」、と言います。
 

  一方、山と海の間にできた町・唐山は、地形上、地震が起きやすく、今でも小さな地震が時たま起きているようです。「言葉が悪いが、仮に当時の大地震がいまもう一度起きれば、被害は当時より少なくて済むのか、疑問だ」。
 

  今回の地震は、早い段階からNHKでは「世界最大級」と言われているが、果たして中国社会にどのようなことを残してくれるのか。