陸の孤島だったブン川、映像で記録

北京22度〜14度 曇り、小雨、晴れ
■天災無情、人間有愛■
 


北京は穏やかな土曜日でした。しかし、振り返れば、中国にとって凄まじい一週間でした。すべての中国人の心が激しく揺さぶられ、世界中の注目が集まりました。ミャンマーのサイクロンに世界の人々が嘆く暇もなく、立て続けに中国大陸が大地震に見舞われました。命の脆さ、尊さを思い知らされただけでなく、一致団結して助け合えば、必ずや大きな力を身に付けることができることも実感しました。
 今朝、まだ朝9時前でしたが、タクシーで通った王府井通りに、すでに献血の長い行列ができました。友達と笑いを飛ばしながら、待っている若者たちの姿がありました。
 

■四川テレビの伝える現地のいま■ 

 現地は昼間、晴れた青空のようで、気温も相当上がっていたようです。救助現場にいた女性記者は、空気中は際立つ異臭があると話しました。飲み水の確保なども肝心のようです。
日本救助隊の活動も伝えられていました。瓦礫の下を捜査した結果、遺体2体が見つかったが、生存者は見つからなかった、隊長の無念そうな表情が写っていました。救援隊は引き続き次の救助先へ移動すると言いました。


 生放送は救助活動だけでなく、テント暮らしをしている避難民たちの生活にも多くのスポットを当てていました。消毒作業、収容所の衛生環境の確保はたいへんのようです。
 綿陽市内の広場には3000人が収容されています。夜中12時頃の生放送の画面では、琺瑯びきの大きな桶に水、湯、薬茶と三種類の飲み物が提供され、スタッフが待機しています。即席めんなどの物資の前にスタッフが立っていました。
 市内で飲食店を開く女性は、「被災民に無料で食事提供」と看板を出し、「家を失った人たちに、自分の家にいるようだと思ってもらいたい。被災地に全国からの救援が入っているので、私も自分でできることをしたい」と落ち着いた顔で言いました。


夜12時過ぎの放送によれば、震災による死者の人数は2万8000人以上に達しました。
各地の詳細人数を報道する四川テレビの女子アナは読んでいるうちに、
涙汲んで、声が震えてしまいました。
聞く人も涙してしまいます…


震災直後から休まずに継続している四川テレビの生放送は、
私は夜中しか見ていません。
毎晩、この時間帯に出てくるのは彼女でした。
落ち着いた放送ぶり、人情味の伝わる口調、ファンになりました。



■陸の離島だったブン川で何が起きたか?
 

震源地であるブン川は大地震が起きてから、1日以上道路が寸断され、通信もすべて不通になり、「陸の孤島」のままでした。そのブン川で何が起きたのでしょうか。
 四川衛星テレビは今晩23時の生放送で、スペシャルゲストに来てもらいました。
ブン川テレビの記者・徐光建さん。
徐さんは震災発生後、5日5晩ひたすら歩き続けて、ブン川からアバチベット・チャン族自治区まで歩き、そこで四川テレビの記者と出会い、一緒に成都のスタジオまで出てきたそうです。
徐さんは、震災後直後のブン川県内の様子やテレビ局の行動を紹介し、貴重な映像を見せてくれました。


アナ:震災当時はどこにいました?
徐:15階の局内ビルでした。建物は激しく揺れていましたが、倒壊はしませんでした。
揺れが収まってから、全員がビルから降りて外で集合しました。
局内のすべてのカメラや機材が持ち出され、スタッフは直ちに、
13の撮影グループが結成されました。
何故ならば、ブン川に13の郷があるので、すべての郷に撮影に入るよう、
行動が始まりました。


アナ:ブン川県内の様子はどうでしたか。
徐:県城(県庁所在地の町)は比較的落ち着いていました。
外部との連絡が中断されましたが、ブン川県は直ちに物資を集め、
救急車や消防車を出動して、市民たちに広場で避難させ、混乱はありませんでした。
  ただ、県を出れば、郷や鎮、村落の被害は甚だしく深刻でした。


アナ:身の回り品はカバン一つで、5日5晩も歩き続けた徐さんにとって、
   道中、一番たいへんだったことは何でしたか。
徐:カバンは後になってからもらったものでした。一番たいへんだったのは、
  危険なところを通過することです。山崩れで落石はあるし、
  橋が壊れたため、川の上方に設置した綱につかまって滑って
  渡らなければならなかった時は心細かったです。


アナ:聴取者に向けて、出したいメッセージは?
徐:県城の様子は皆さんの想像よりも増しなので、親族や知人のいる方は、
  くれぐれも県に戻ったりしないでください。
  ブン川に行く道はたいへん危険ですから。


 徐さんはやや疲れた顔でしたが、落ち着いていて、冷静に話していました。彼が道中で撮影した多くの映像は、震源地の様子を記録した貴重な資料になると思います。彼と同僚たちの冷静な対応に敬意を払います。



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■北京では■
 

 今日は、偶然にも胡同の市民を取材した時、震源地の北川の山中で20年暮らしていた北京生まれの老夫婦に出会いました。何気ない話をしていると、奥様は目頭が熱くなり、涙ぐんでしまいました。
 「ショックでした。震災直後から知り合いたちに電話してみましたが、何人にかけても通じませんでした。とても心配していました。おとといにやっと電話が通じて、それでも電波の様子が不安定でした。昔の同僚たちは無事でいることが確認できましたが、教え子で死んだ人もいたようで…」
 教師だった奥様は言葉が出なくなりました。老夫婦は1986年に北京に戻りましたが、20年の間、ブン川一帯は大地震やら小地震を何度も体験していたといいます。
 「日本の救援チームは飲む水すらすべて自分たちで持参している。ほかのところの救援チームと違い、細やかなところまで配慮が行き届いている。支援をしてくれて、心から感謝している」。奥様は同行の日本人の友達に「それを必ず日本の皆さんに伝えるように」と念を押しました。
 「いくら大きな震災でも、精神で負けてはならない。言いたいことはそれだけです。」
 二人の落ち着いた、前向きな心構えに私まで励まされました。