四川帰りのボランティア

中国では史上初の端午節休みを迎えました。
今年は振り替え休日で、三連休になりました。


ただ、残念なことに、休めても、この日にやるべき仕事は
前もって完成できなかったため、
いつも通りの出勤でした。くやしい…
いつもぎりぎりの生活。たいへんです…


さてさて、気分転換に、夜は夕食をはさみ、
四川でのボランティアを終えて
帰ってきたばかりの北京の青年に話を聞いてきました。


英語名JhonLeeさん。現代城のオフィスに通うサラリーマン。
父親の本籍は四川。「私も四川の息子」といいます。
育ちは大地震後の唐山。
「唐山に行ったのは、大地震の数年後だった。
 それでも、小さな地震を何度か体験したことがあり、
 校舎が大きなひび割れが入ったこともあるぐらいだった。
 同級生の中には、姉や兄が地震でなくなり、
 両親は子どもを失ったことの悲しみを埋めるため、
 生んだ人も多かった。」


5月18日から約3週間滞在していました。
それまでは、サッカー青年で、週一回以上は
必ずサッカーの試合に参加していました。
右肩は直前に、サッカー場でのぶつかり合いで脱臼し、
腕を持ち上げることもできなかったほどでした。
地震の悲惨さを知れば知るほど、立ってもいられませんでした。


「現場に行って何かしないと一生後悔する。
 職は首にされてもまた探せば良い。
 命はそういうわけにいかない。
 今行かないと救えない命がある。」


成都を拠点に、友達のボランティアグループと一緒に救援物資の
運搬のお手伝いをしていました。


清潔な北京のレストランにいても、ウェットティッシュ
五本指の一本一本をきれいにふき取っていた彼は、
「すべて成都で身についた習慣だった」といいます。
「脱臼していなければ、私も震源地に行けたのに」。
残念がっていましたが、自分が行くことによって
返って面倒になることを嫌がっていました。


有給休暇は11日間しかなかったが、
その後も、延長の休暇をとり続け、最終的に3週間現地にいました。

「どうしても途中で抜け出すことができなかった。
 今は緊急援助が一段落し、後片付け作業に入った」。
帰りのタイミングがなかなか決められないようでした。


自分自身の滞在費はすべて自腹で、
物資の購入や車の手配に当てた出費を合わせると、
3週間で7000〜8000元を使ったそうです。


ボランティア活動について、無秩序なことが問題視されたこともあり、
人によっては、「被災地は人手不足のことはない。
専門的な技術を持っていない人は、むやみに現地に入ると、
返って迷惑なのだ」と言う人もいます。
しかし、彼は、
「被災地の再建に様々な人手が必要だ。
 組織に入ることはもちろん大事だが、
 やる仕事さえ選ばなければ、役立てることがたくさんある」、といいます。


さらに、政府と協力しあって、一緒に救助活動を展開すると、
一番良い効果を得られると強調していました。


「政府には一般の民間組織が把握しきれない情報をたくさん知っている。
 地元の様子や事情にも詳しい。
 民政部門の関係者は、被災者の救援が仕事なので、
 自分たちの力が及べないところに対する救助をしてくれる
 ボランティアたちをありがたく見ているので、
 色々協力的でいてくれた。
 物資のまだ届いていない辺鄙な山村に、
 役所の公務員が自ら運転手になり、救援物資の運搬を手伝ってくれた。
 双方が補い合うことができれば、相乗効果が期待できる。」


■姉を失った3才の男の子


一番忘れられない場面は、都江堰で出会った男の子だったという。
11才の姉は、小学校の倒壊で帰らぬ人となった。
両親は健在だが、いつも何かあると、かばってくれた姉の死に
大きなショックを受けたようでした。
おもちゃをあげても、話をしかけても、どんなことをしていても、
呆然とした表情で、それといった興味を示してくれませんでした。
唯一「ほしい」と言ったものは、
ボランティアのシールでした。
ところで、一瞬だけ、男の子の顔に生気が戻る場面がありました。


両親は、予想よりも、平静に娘の死を語っていました。
近所さんも口をそろえて「だれに出会っても、笑顔で
礼儀正しく挨拶できる本当に良い子だ」といい、
勉強も抜群にできるし、成績は学校でも上位です。
父親は息子を抱きしめて、こう語りました。
「ぼうやや、大きくなったら、姉の分まで
 取り戻して頑張らなくちゃいけないよ」、と。


その瞬間でした。
それまで、何に対しても反応すらしなかった男の子は、
自らこぶしを握り締め、「必ず取り戻すから」と言いました。


「今回のボランティアの中で、一番、心が打たれたシーンだった」と言います。
そして、「その子は自分の言ったことを、これからも忘れることはないと思った。
     彼の成長を信じている。今後もずっとその子を見守りたい」と話します。


将来は、大地震の救援で培ったノウハウを生かし、全国組織のNGOをたちあげたいと
大きな夢を語りました。