メディアのやさしさと残酷さ


シンクロ中国代表はチームで銅を獲得。おめでとう!!
どのチームも見事なパフォーマンスを見せてくれている中、
甲乙がつけにくいと思います。それでも、メダルを獲得できるには、
よっぽどの努力が必要で、たいへんなことなのですね。


お疲れ様でした!!


日本代表の中、試合の中、息継ぎができず(過呼吸)に、失神した選手が出たようで、
早く回復するよう祈っています。
それにしても、素人はテレビを見るだけでは、そういうたいへんなことが
あったとは分からないぐらいに、最後までよく頑張りました。
CCTVをはじめ、中国のメディアは「オリンピック精神を体現している。
粘り強く頑張った」と感動の言葉を惜しみません。


さて、昨日のブログに書いた農民工冷さんに、今日会えました。
28歳にしては、確かに老けています。
「40歳や50歳ぐらいあるだろう、とスタッフから言われている」。
本人は老けて見えることには特に気にしていないようです。


「北京の人はご飯ばっかり食べている。慣れない味だね」。
明日朝帰ることについて、喜んでいるようです。
「鳥の巣」で五ヶ月ほど働いて、故郷に帰ったのも、
気候と環境に馴染めないことが一因だったようです。
「毎日30度以上の暑さだった。気温が高いだけなら、まだいいが、
 蒸し暑くて蒸し暑くて、我慢できないほどだった。」


同行していた兄が同じく天気が苦手と感じ、心臓発作を起こして、
結局、兄弟で青海の故郷に戻ることにしました。


おおらかな性格で、自己アピールが好きで、声を自由自在に使え、
お世辞抜きに、プロ並みに上手かった。
青海の民謡「花児」から、チベットの伝統的な歌、流行歌、京劇まで、
幅を聞かせている。喫茶店代わりに使ったラーメン屋は店員も客も一緒に拍手してくれた。
驚いたのは、出し抜けに演じてくれた「口真似」でした。
「何がいい?」と聞かれましたので、「では、鳥のさえずりをお願いします」と答えました。
2、3秒して、「いや、豚をしめるシーンを再現しよう」とアイディアを変えた。
縛られて、抑えられて、もがいで、だんだん力をなくしていくプロセスを如実に再現した。
子どもの時、私は祖父母の村で過ごしたが、良く見かけていたシーンを思い出させた。


「3歳で母が無くなり、7歳で父と死別。兄に育てられた。
 アートが好きで、歌、踊り、口真似、カンフ、すべて一人で独学した。
 地元の芸術学校まで受かったが、年間2800元もする学費が払えず、
 入学を断念した。県の公演団体にも契約社員として採用されたが、
 コネを築くためのお金がなく、契約は一年で切れて、正式社員になれなかった。」


軍隊にも3年入隊した経験がある。
が、長くやり続ける仕事についたことがない。
預金も一文無しで、嫁の来てもない。
住まいは両親たちが住んでいた数十年前にできた土の小屋のまま。
兄はしっかりもので、兄嫁もやさしい人。
「家畜を飼育しているので、収入も安定している」。
兄の住まいはすぐ近くなので、「食事はいつも兄の家で食べている」。
「甥はこの夏、青海の民族大学にまで受かった」と誇り高かった。
しかし、自分のことといったら、
「嫁を養えるほどのお金がない。特に来てもらわなくても良い」。


というか、第一歩にしっかりした家に住むようになりたいという。
最近、国の貧困者対策に新しい政策が発表され、
何とか、それに申請して、対象者と認めてもらいたいという。
「自分もお金を出さなきゃならないけど、国が家を提供してくれるみたい」。
自分の県は青海でも最も貧しいエリアの一つで、自分の村はまた、県の中で、
最も貧しい村だと言う。
2、3万元があれば、家が建てられるが、出稼ぎの賃金は貯金できなかった。
どうやって安定的な仕事につくことができるのかも、見当はついていない。


「芸術が好きで、花児の歌詞や新曲を良く考えていたが、
 最近は目の前の生活に迫られ、こういう優雅なことをしていられない。
 それにしても、何も成し遂げることができずに、この年になったので、
 そろそろ芸術の夢をあきらめない、と」。
言っていた内容とは裏腹に、あきらめ切れない口吻だった。


去年、故郷でのフリーターの生活に飽き、知人が先に出稼ぎに来た北京に行くことを決意した。
到着して数日後に、ラジオで、鳥の巣が動労者を募集していることを知った。
「さっそく応募しに行った。国家プロジェクトだけあって、動労者の資格審査が厳しかった。
 私の場合、軍隊の経験が買われたみたい」。
日当70元。鉄筋の運搬や組立てが主な仕事だった。
働いて二ヶ月ほど経った時、ある日、見知らぬ都会出身の男二人が工事現場に来た。
「みんな、歌が上手人はいませんか。」


CCTVのディレクターがメーデーの特番のために、芸達者な労働者を探しに、
鳥の巣の工事現場にやってきたのだった。
皆からいっせいに指さされて、「あいつがうまいぞ」。
早速その場で歌ってもらい、即、出演が決定した。
すべてのきっかけがここからスタートしたものだった。


CCTVのディレクターとは今も、仲良しだ。
私が話しを聞いている間、忙しい仕事を横に、わざわざ会いに来てくれた。
ウェブサイトのスタッフから、最初、電話がかかってきた時も、
戸惑った冷さんはディレクターにさっそく相談の電話をかけ、
「詐欺師でないことを確認した」と言う。


しかし、例のポータルウェブサイト(以下はサイトという)のやり方は、もちろん、善意からの企画だろうと思う。
しかし、話を聞いているうちに、残酷さを伴う善意でもあることを始めて知った。


7月半ば、スタッフから電話がかかってきた時、冷さんは、
故郷から遠い海辺の青島にいた。
魚の塩漬けに人手が必要だと言うことを聞き、故郷を出て、まだ働いて数ヶ月も立っていない。
「月給は800元。毎月、食事代は200元、タバコは100元。」
ほかには、携帯料金など、何かと出費が多く、働く時間も短かったし、
貯金をためるほどにならなかった。


サイトの誘いは、詐欺でないことが確認できてから、
アクションが正式に稼動した。
「あなたの家に行きたい」。サイトから誘われたので、青島での仕事を断念して、
ネットユーザーの寄付したチケットで帰省した。
サイトのスタッフ2人が同行していた。
写真を撮り、動画を撮影することはスタッフから聞いているが、
ネットで流すことを知らない。
いや、サイト側から知らせたかもしれない。しかし、何せ、
ネットとは何か、その時、冷さんはさっぱり分からなかった。
北京に来てから、やっと自分がどれだけ、有名人になったかを始めて知った。
何よりも、同行していた二人がパチパチ撮っていた写真が
そのまま、ネットで掲載されたことに驚いた。


CCTVの番組は放送している間だけ、見られるが、インターネットだと、人間が死ぬまで
 ずっと消すことはないと聞いているが」


人前で自分のことをアピールするのが好きな性格なのに。
彼のこのような反応がやや、理解に苦しみました。


「恥ずかしくてたまらない。私のおんぼろ小屋の外と中、そして、兄一家の写真など
 すべてが公開された。
 もうこんな企画するより、お金をすべて四川に寄付したほうがよいと提案した。
 しかし、それを言い出したとたん、サイトのスタッフは泣き出しそうになり、頼み込んできた。
 『ネチズンから幅広く注目されている企画になった。大勢の参加も得ている。お願いだから、
 引き続き参加をお願いします』、と。
 仕方のないことだ。もう恥ずかしくて…」


恥ずかしいと言った理由は、
「自分の良い面を見せる企画なら、喜んで披露してほしい。
 しかし、おんぼろ小屋や何から何まで、皆に見せたくはない。」


鳥の巣で五輪が見られたことは夢のようだった。
陸上が好きなので、大満足していたという。
一方、「好きな種目は武術」だが、自分の願望を、
サイトはこれ以上聞き出すことはなかった…


自分ひとりじゃ絶対に夢見ることのないことだった。
サイトを通して、意外な展開になった。
しかし、普通に考えると、冷さんの気持ちは誰もが共通して
もっている気持ちでもある。
夢が実現したことと引き換えに、
傷ついたプライドのうなり声が聞こえてきそうです。









冷さんのこと