四川の旅:漁子渓村の遭難者墓地


漁子渓村は映秀鎮から3キロほど、山の頂上にある村。
丁度、映秀鎮を見下ろす感じです。
村人が786人、地震で遭難したのは42人。
地震時、平地にある町から土石流などを逃れるため、
数多くの人がこの村に入ってきました。
救援が入る前までの数日間、
村人は貴重な食べ物や燃料などを避難してきた人たちに
分け合っていたことで知られる村です。


村はずれのとうもろこし畑に、犠牲者を葬る墓地がありました。
墓守の馬さん(63歳)は、「何人葬っているのか、詳しい数字は分からない。
2500人とも言われるし、数千人程度だと見られている。
遺体はビニールの収容袋に入れられてあり、大人は一人一枚、
子どもは二人一枚か、三人一枚だった。
死体は幾重にも重なり、誰がどこに葬ったかは知る由はない」と言います。



馬さんの孫娘(小学校5年)もその中に眠っています。
「放課後帰ると、おじいちゃん、おじいちゃんと呼んでくれた良い子だった」と馬さん。
たずねてきた人たちに、丁寧に墓の様子を説明する馬さんは、
心の中にも悲しみが眠っています。


葬ったばかりだった時は、しばらくは凄まじい匂いがしていたようです。
気のせいではなかったと思いますが、今も、墓地の前に来ると、
今までと明らかに違う匂いが漂っていたのを感じました。
墓地の中に入ると、心がばらばらに割れてしまいそうな痛ましい風景が見られます。

北京五輪の旗と国旗の旗が両側を飾る花輪。
本来は夏の楽しいイベントとして北京五輪を見るはずでした。
それが、永遠にかなえない夢となり、無数の若い命が眠っていました。
または、小さなりんご、水の入っている小さなコップ、
数え切れないほどの蝋燭と線香の燃やした跡…


馬さんは最近になって、墓碑が少しずつ立てられるようになったと言います。
葬る場所は正確に把握していないが、家族は気持ちを託したかったようです。
そこに刻まれた生年月日に目を覆いたくなります…
幼い命を守りきれなかった両親の痛みであり、国の痛みでもありました。