「悲あり喜ありの一年」、北京で勉学中の大地震被災地の中学生


董慧さんと王桃さん。詳細はこちらへ↓
 http://japanese.cri.cn/781/2008/12/15/1s132082.htm

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董慧さんと王桃さんは「親戚同士」だと自己紹介します。
正確に言いますと、董さんの父方の祖父と王さんの母方の祖母がいとこの関係だそうです。
二人は同じ中学の同学年だけでなく、二人の母親も同級生だったそうです。
董さんは中二の1組で、王さんは3組。


地震が起きたのは2時28分。
いつもなら、授業は2時半から始まる
ところで、学校は12日の月曜日から午後の授業開始時間を
2時20分に変えたばかりだった。
「もし2時半だと、寮にまだ一部の生徒が昼寝していたに違いない。
 すると、ダメージがもっと大きかったかもしれない」と二人は言う。
中二の教室は2階の端にあり、真っ先に傾いた角でした。
董さんのクラスは「歴史」の授業でした。
学校は町のはずれにあり、その100メートル先に小川が流れていました。
小川の向こう岸は青々とした山です。
山の奥のほうで、採石している場があり、普段から、爆破の音が聞こえていたようです。
「突然、ど〜んと凄まじい音がしてきた。
 今までになかった凄まじい力の火薬を使っているねと一瞬そう思った。
 しかし、見る見る、天井が崩れてきて、ひびが割り、
 どうもいつもと違うと思った。
 その時、先生は『地震だ!早く逃げよう』と叫んだ。
 皆が急いで傾いた教室から外へ逃げ出した」。


董さんは「運が良かった」と振り返ります。
隣の教室にある2組は体育で、グラウンドに出ていました。
人の流れに渋滞がなかった。
そして、教室の後ろのドアはだいたい鍵がかかっていました。
しかし、その日、先生は何かを運ぶため、臨時的にドアを開けっ放しにしていました。
「前のドアがつぶれてしまい、もし後ろのドアはいつもと同じように、
 かぎがかかっていたとなれば、わがクラスにも犠牲者も出たに違いなかった…」


董さんたちの話では、1〜3組は運が良かったでしたが、
4〜6組は犠牲者が数多く出ていたと話しました。
それから、完全に倒壊した女子寮の一階は教師の住まいでした。
昼寝していた教師の中に、死者が多く出たようです。


董さんは、地震後の映秀鎮に4日滞留しましたが、
16日、家族と8時間ひたすら歩きつづけ、
都江堰市に向かいました。
王さんは運良く車に乗せてもらえました。
二人はしばらく成都で滞在した後、
6月、北京に勉学に来ました。