震災から一年〜3

綿竹県遵道鎮で感じたこと 


 本来は美しい田園風景に違いない。田畑の良い香りが漂ってきた。
 今年も青々とした麦畑が見られたが、近寄ってみてみると、茎の不ぞろいなことに驚いた。高さも太さもかなりばらついている。
 道が狭くて、9人乗りのマイクロバスはかなり無理して、しばらく進んでいたが、とうとうあるコンクリートの筒を固めてできた橋の前に来ると、「危ない!要注意」の注意書きを見て、運転手は橋の向こうに進もうとしなくなった。
 下車して、徒歩20分ほどで目的地の黄金村管轄下の一つの村落に着いた。


 畑や田んぼの中の一本道は、元々トラクターしか通れない幅。中国の農村に行けば、よく見かける普通の土の路面の道路だ。ここは稲作もしているので、道の両脇は水路が張り巡らされている。
 見知らぬ人たちが歩いてきたのを見てとると、田畑で農作業していた人たちは自然に仕事をする手を止め、微笑みながら眺めている。
 ちょっとおしゃべりをしてみると、「再建するにはレンガが買えない。それに、道路が狭くて運搬用の車も入れない。仕方がないので、水路を埋めて、道路を無理やり、広げたところもある。今年の稲はだめになるだろう。また、道路は舗装されていないので、雨でも降れば、泥沼になり、使い物にならない」。


 が、目的地の村落に着くと、明らかに周囲の村落と違った景観だった。この村だけは何故か、再建工事が順調に進んでいる。30数世帯、全員分の家屋の骨組みはほぼ完成した。どうやら5月12日を迎えるため、モデル村落を作ることが必要のようだ。ただ、この景観はどう見ても、周りの野原の風景と合わない。不自然に見える。というのは、不思議とどの家の外見も同じで、色から様式から建材に至るまで、すべて画一的だった。家の建つ場所は、元々は麦畑だった。整然と3列に分かれて、横長に工場が並んでいるようにも見える整然とした住宅団地だ。外見だけでは、どこが誰の家か、見分けるのに一苦労するほどだった。
 作家の毛丹青さんと歌手の田原さんはある対談で、「都市の特徴は直線が多いことにある」と言っていたことを思い出し、その表現に深く頷けた。しかし、目の前の農村は、とうとう都会的な自己主張の直線に占領されてしまった…


 もう少し先に行ったところに、元々の村落がある。残念ながら、近くまで行く時間がなかったので、遠くから眺めることにした。そこには垣根があったり、潅木があったり、田んぼがあったりして、代々、営々と続いてきた場所だったことが一目で分かる。ただ、家屋はほとんど全壊したため、もともとの家の跡地に人々は簡易住宅を建てて避難生活をしている。


 さて、私が新築の建築の見学をしているとき、私の後には、ずっと村の女性たちがついていた。彼女たちの熱い視線を背にひしひしと感じた。明らかに、皆さんは外部の人間に何か話かけてみたいと思っている。いつ話しを切り出そうかと、タイミングを考えているようだった。


 ここは、現地のボランティアたち(とは言っても、彼らも貴州や杭州などからの外来者で、本当の意味での地元の人はいないようだ)の案内で入って来られたところなので、正直、村の様子は私にとって、白紙だった。
 彼女らは、一体何を伝えたかったのだろうか。
 来る道すがら、隣村の女性たちに少し話を聞いてみたが、再建資金が不足していて、ローンを組むにも担保などの制限があるし、無事借りることができたとしても、まだ必要な金額に満たない。
 ある内装工事がほぼ完了した家の中に入らせてもらった。彼女たちもまだ後についてくれてくる。
 「あなたの名刺を頂戴」。
 どうやら、皆にとって、私たちは何者で、何のために村に入ってきたかがまだ良く分かっていないようだ。そして、次のフレーズに驚いた。
 「浄水器がほしい。どこかから寄贈は無理でしょうか。飲み水の確保で苦労しています」
 「資金が不足しています。やりくりできなければ、新居には引っ越せません」
 「貯金?ですか。そんなもの、地震前から持っていませんでした」
                                    ……
 
 きれいな新居に無事引越しできるまでには、村人は、資金のハードルを乗り越えなければならないようだ。
 正確ではないが、皆に聞いた話をざっくりまとめると、
 このあたり、平均的な家の広さは100平米ほどで、所要資金は7万元ほど。
 このうち、政府からの無償再建手当てが2万元ほどで、低利子融資は2〜3万元まで借りられる
 (ただし、年齢や担保など条件があり、中にはスムーズに借りれない人もいる)。
 それでも1〜2万元が足りない。
 小口の低利子融資のルートが不足しているようだ。


 皆さんは、来客を大歓迎しているようだ。誰か来てくれると、初めて問題解決の希望につながると思っているようだ。ダメもとで言ってみる。言わないと何にもならない。そう思って、ためらいながらも、タイミングを見計らって、肝っ玉の大きい人から先に口を利いたようだ。
 

 隊長さんは張り切って頑張っている中年男性・方さん。人目のないところで、その方さんに聞いてみた。
 「ボランティアたちの活動をどう評価していますか」
 「彼らがしてくれたのは、主として、精神的な支えですね。実際に再建することになれば、やはり自分たちで汗水流して働き、また不足している資金を自分たちでやりくりして、頑張って入手していくしかないです」
 

 ボランティアの青年にも聞いてみた。グループは黄金村所属のすべての村落に、「コミュニティ作り」の一環として、図書室を寄贈するボランティアをしているようだ。
 「村人の反応はどうですか」
 「村人からは、小説や文学作品なんか、いま、読みたくないという声が上がっています。一方、私たちの本はその多くは、町部の住民が不要になった本を集めたもので、どうしても小説や文学作品が多いですね。村人たちにとって、文学作品よりも、農作物の栽培や家畜の飼育など、実用的な本を読みたいようです」


 “社区建設”「コミュニティー作り」。
 農村で生まれ育った私にとって、「社区」はなんとも都会的な用語に感じる。この言葉は、都会でもここ十数年、現れてきた新語だと思う。その表現したいことはおそらく、日本で言う「地域社会の再構築」とでも言えようか。社区という農村部では、まだなじみが薄い言葉を用いるより、もっと良い用語がないかなと正直こう思った。
 ちなみに、四川大地震はここの村にとっての一番の影響は、家屋の損壊だった。地域社会や村社会にある人々のつながりには、それほど影響が出ていないように思う。
 村の再建と一緒に、村人にどうやって文化的で、精神的な満足を求める暮らしをしてもらうのか。これもゆくゆくの課題と言える。ただ、そうなってもらうためにも、まずは物質条件を整える必要がある。
 

 現時点、彼らは外部の人たちに一番期待しているものは、心のケアというよりは、再建資金の調達のようだ。
 対象者の一番期待していることに、奉仕精神の強いボランティアたちが、答えることができない。
 一方、決してボランティアたちを責めているわけではない。彼らは博愛の心を持って、できる範囲のことにベストを尽している。彼らにだってできることとできないことがある。


 自らできることと対象者の期待との間で、接点を作り出すことが、ひょっとしたら一番求められていることなのかもしれない。


 黄金村での滞在はせいぜい1時間程度だった。そうした中、突然、感動的なシーンがあった。黒いエプロンをかけている60代のおばあちゃんは、来客を見て、しばらくして、手品師のように、家からボウルに盛ったゆで卵を持ってやってきた。触ってみると殻はまだ暖かかった。
 「今、仮設住宅に帰って茹でてきました。皆さん、どうぞ食べてください」
 自分が被災者なのにもかかわらず、地元人間のホスタビリティを見せたかったようだ。


 「おばあちゃんの家の卵ですか」
 「そうですよ」
 「何羽飼っていますか」
 「三羽です」
 数えてみると、ボウルにある卵は10個以上もあった。
 「それはいけません。ここ3〜4日の卵を全部茹でてくれたじゃないですか」
 おばあちゃんは笑って微笑むだけ。ほんとに暖かい、やさしい笑顔だった。
 取り巻く村人に大勢見られている中、もし受け取らないと、おばあちゃんは面子が立たない。しかし、受け取ってしまったら、こちらが不安になる…どうしたら良いか。

 
 この後の話は、本来は書くべきでない内容だ。書くと、美しくなく、感動が薄れるからだ。ただ、こういう場面に直面する時の、中国人と日本人の受け止め方の違いに触れてみたい。
 おばあちゃんの卵に対して、日本人は「もらってもいいのかな」と戸惑う。一方、中国人は、
 「おばあちゃん、ありがとう!しかし、数はかなり多いですね。どうしましょう?」
 「そうね。じゃ、1人1個ずつにしませんか」、
 という感じで、とんとん拍子で卵の行方と受け取り方を決めた。
 周囲の村人に見守られ、おばあちゃんと別れの握手をした。そして、そのついでにおばあちゃんのエプロンのポケットに、気持ちを表すお札を入れた。おばあちゃんはびっくりしたが、顔を綻ばせ、快く受け取ってくれた。
 

 強く抱きしめ、ぎゅっと相手の手を握リしめながら傾聴ボランティアをする。こういうことも確かにとても良いことだ。しかし、彼らの目つきから、その期待していることは決して、それだけに止まることでないことが、明確に読み取れてしまった…
 ボランティア活動をする際、相手の希望を聞きだして、少しでもそれに答えられる方向に向けて、活動を進めていくべきか、それとも、自分たちのできる範囲内のことをして、村人にそれに合わせてもらうのか…
 どちらが理想的なあり方なのだろうか。


 不ぞろいの麦畑を背後に、私の気持ちがどんどん複雑になり、悩みも膨らみつつあった…
 

 おばあちゃんのゆで卵は、成都空港の待合室でたいへんおいしくいただいた。これまで食べたゆで卵の中で、最高においしい味だった。卵自体はもちろん、火加減といい、やわらかさと言い、最高に良く茹でてあった卵だった。
 おばあちゃん、ご馳走さま!そして、ありがとう!


 村の女性たちの熱い視線も忘れられない。いつか彼女らの視線に答えられる人間に、なれるかどうか分からないが、いつかなれるといいなと心からそう思っている。