古鎮のジレンマ 「老街」のいま

 桐城市の古鎮「孔城老街」に行ってきました。父親の生まれた所なので、一応、私の「本籍地」でもあります。
 この古い通り(「老街」)は最近、北京でも脚光を浴び始めました。去年、北京の都市新聞をめくれば、意外にも「昔の町並みが残されている水郷の町」として、写真入りの孔城老街の紹介記事が読めました。北京の会社がこの「老街」と近辺の土地を買い上げ、これから本格的に観光開発が始まるからです。会社の経営者は孔城の地元出身者だも聞きます。

 子どもの時、私は老街に何度か行ったことがあります。当時、伯父は孔城初等中学の校長をしていたため、一家はこの町に住んでいました。しかし、伯父の死と伯母の引越しにより、その後、20数年、老街に行くことはありませんでした。そのため、私にとっての老街の記憶は断片的なものしかありません。
  灰色の「青レンガ」の壁に黒いかわらの家…
  川があって橋がかかっていた…
 それ以外のイメージはすべて、祖母や父の語りに頼っています。
  川沿いで祖父が木材屋を経営していたこと、
  戦乱や洪水、飢饉、政治運動などに翻弄されて、やむを得ない移転など…

 こんな父や祖父母の生活の場だった孔城老街が、これから観光の町として生まれ変わる?!
 正直、このニュースに驚いてしまいました。私の勝手な憶測ですが、故郷の人たちは、基本的に地縁や血縁でつながっている顔見知りの人たちの集まりのため、見知らぬよそ者に自分をさらけ出して、「見せびらかす」ように自己アピールしながら、観光収入を得ることには慣れていないはず。テレビやインターネットの普及、または人の移動が盛んになるにつれ、多少、意識が変わってきました。しかし、何をどのようにアピールすればよいのか、または、「観光開発」で町の振興を図ることをどう思っているのか、気になっていることです。
 一度は、今の老街と会いたい。そんな思いを胸に、老街に向かいました。車は「老街一甲」と標識が立てられた古い家の前に止まりました。

 古ぼけた民家の壁に、黒い印刷体の字で書かれた斬新な札でした。軒下の土の塀に、ぴかぴかの近代的な看板も見られました。
「蒋家大院」、
「鍛冶屋の唐さんの家」…

 書かれた内容は悪くないのですが、看板そのものは何故か、まるで標本の名札のようでした。桐城は土地柄、古くから文人を輩出し、毛筆の看板がきれいなところなのに。
それはそれとして、「甲」とは昔の町の分け方で、孔城鎮は全部で九つの「甲」まであります。

 「北宋時代に形成され、明清から民国時代まで栄えていた。2キロほどあるS型の通りを中心に3つの巷と13の路地があり、総面積は2万平方メートルに達している。」
「一甲」から入り、石畳に沿ってしばらく歩くと、開発計画案の書かれた大きな看板が見られました。「再開発のため、すでに95%の住民を移転させた」という文言が妙に気になっていました。 
 孔城老街の観光開発に関して、ここに来るまでに二通りの意見を聞きました。
 「もっともっときれいになり、すばらしい町になるに違いないよ」。
 という見方もあれば、正反対の冷たい見方もあります。
 「古い建物を古いままに修繕することが約束だったのに、住人を移転させた後、メイン通りに面している家を除き、奥にある古い家をたくさん取り壊した。老街の良さは横に奥行きがあることなのに、取り返しのつかないことをしてしまった。観光開発は名ばかりで、本意は不動産開発のための土地の囲い込みではないだろうか。」
 町は、生活者がいるからこそ活気があります。生活者を立ち退かせて、観光開発をした町は北京にもあります。どこか映画のセットのようにしか思えず、現実味が薄かった。生活者の入れない観光開発は、ある意味、様子が想像できます。卸売り市場から仕入れた土産品が売られ、地方色がどんどん薄れていく…
 「自分たちの町を自分たちで管理する」。
 意識にせよ、行動にせよ、組織にせよ、このような力がまだ弱いようです。 
 ただ、話を色々聞かせてもらうと、やむを得ない現状があることも知りました。それは、中国は経済が発展すればするほど、「古鎮」は魅力が失せ、人々は新しい町やもっと大きい都市に移転したがる傾向があることです。
 「昔は1甲から3甲まで様々な店舗が軒を連なり、栄えていたよ。しかし、最近は老街を出て、新街もしくは桐城市に引っ越した人がとても多い。今回の立ち退きの前から、空き家が多かったよ。」
 
 人々の意識の中では、「できる人ほど、変わりばえのないぼろ屋ばかりの町を離れて都会に行く。居残っている人は進歩がなく、進取する気持ちがない人たちなのだ」という考えがあるようです。
 「桐城一の歴史的古鎮」という誇りを有しながらも、古鎮以外での暮らしに人々は憧れているようです。
 「親孝行」にもじって、故郷をより美しくし、もっと住みやすくしようと頑張ることを仮に「故郷孝行」と言うことにしましょう。孔城人、いや、かなりの中国人にとって一番の「故郷孝行」は自分の町・村を離れてサクセスストーリーを成し遂げることのようです。
 町人不在の町の観光開発は、こうしたことが背景ではないかと私は見ています。閑散とした老街を歩きながら、このように思いました。

 「麻石条」と呼ばれている石畳の街路。これが老街の魂と言えましょう。石畳の表面は磨り減っており、でこぼこになっています。所々、深くまで食い込んだ轍の跡も見られます。今はほとんどの扉が閉まっており、町を行きかう人の姿も少ないが、栄えていた痕跡だけが鮮やかに残っています。
 
 いくつか角を曲がり、かろうじて「教育為本」のスローガンが残されている校門らしき建物の前に来ました。記憶の深いところに眠っていた何かが、光速で思い出の引き出しの最前列に飛び出てきました。
伯父の勤めていた中学校の跡です。校門は残っているが、構内はたった1棟の「朝陽楼」と題した木造建築と1軒の民家しか残っていません。いたるところに瓦礫がたまっていました。木造建築から剥がれてきたようなすらりとした木材も散在していました。祖父の木材屋から仕入れたものも入っているのでしょうか…



 「青レンガ」の壁、
 かわらの屋根の家、
 私の断片的な記憶は確かにこのあたりの空間で生まれたものです。しかし、もう完全な形でそれが蘇ることはありません。
 構内に、一列に立ち並ぶ松ノ木の生垣も見えました。しかし、その生垣により守られていた家屋はすでに廃墟と化しました。そのため、広々とした空き地に何故、ぽつんと松ノ木の列が浮かび上がるのか、ぱっと見ると、さっぱり意味が分かりません。滑稽にさえ見えます。

 老街にはわずかに住民が住んでいました。皆気さくで、フレンドリーに話かけてくれます。首にカメラをぶら下げている観光客の姿にはすっかり見慣れているのか、「こんな古ぼけた町なのに。どこが面白いのか」、と聞いてきたほどです。
 「古い家に住むのは、やはり不便だよ。新しい家があれば、引っ越したいな。再計画の対象エリアは3軒先の家までになっているのが、残念だけどね。」
 老街入り口の家に住んでいる青年は、飾り気のない笑顔で打ち明けてくれました。ただし、観光開発の将来性について彼はあまり楽観視していません。 
 「こんな辺鄙なところまで、誰がわざわざ来ようとするのかな。幹線道路から外れているし、近くにほかに有名な観光地があるわけでもないし…」 
 近所のおばさん二人も会話に加わってきました。
 「ずいぶん古い家が取り壊されていた。昔から住んでいる人もどんどん外へ移ってしまった。これから、老街はどんな町になるのか見当がつかない。もうデベロッパーに買われた以上は、老街はもう孔城人の老街ではない」。

 観光開発が成功すれば、孔城老街は再生するかもしれません。しかし、そうであっても、あの一輪車がぎしぎしと石畳の上をひいていく活気溢れる商いの古鎮・孔城老街は確かにもう寿命が尽きましていました。