TaxiDriver物語〜“誇りに思える28年”

 北京のタクシードライバーはほんとに面白い。いつもタクシーに乗ると、移動しているバーに入ってきたつもりで自然とおしゃべりしたくなります。いや、おしゃべりするのではなく、相手がしゃべってくれて、こちらがもっぱら聞かせてもらっているのです。
 本日は、ドライバー暦28年で、「とても誇れる28年だったよ」と言っている郭さんの話でした。
 全人代開催期間中の指定タクシー、海部首相訪中時の訪問団ドライバー、政府機関の指導者のドライバー…並のタクシードライバーでは、体験できないことをたくさんしてきたようです。


■北京のタクシー、4000台しかなかった■
 28年前、解放軍を退役した後、郭さんは国営タクシー会社のドライバーになった。本人の希望は公安局員だったけれど、両親から「危ない仕事」と反対され、タクシーのドライバーになることで妥協したという。
 「我が社は1973年に発足した古い会社だよ。当時、北京のタクシーは4000台ぐらいしかなかった。北京市タクシー調達センターというのがあって、利用する時はそこに電話をかけて予約をしていた。外国人の宿泊するホテル以外では、利用客は殆ど妊婦、急いで病院にいかなければならない患者などだった」。
 北京のタクシーは今は6万台を越えた。滑り出しの頃にも4000台があったとはむしろ私にとって意外だった。20年前、私が北京に来たばかりの時、流しのタクシーがほんとに少なかったように覚えている。
 「1980年代初めの時、良い仕事の代名詞は、手术刀(手術のメス)、方向盘(タクシーのハンドル)だった。運転手をしていると聞くと、皆からたいへん尊敬されていた」。


■国の政治の現場を体験■
 タクシーが少なかっただけでなく、ランクの高い車両を使ったタクシーがもっと限られていた。数が限られている黒塗りのタクシーは、海外の中国駐在機構から重宝される。また、毎年、春の定例行事として開かれる全人代と政治協商会議の専用タクシーとしても利用されている。

 タクシーが天安門脇の長安街を走りぬけていった。
 「もう、どこにでも行っていましたよ。この中にだって」と言って、あごで指図していた方向はゴールデンウィーク前夜でまぶしくライトアップしていた中南海だった。
 「全人代代表やら省長クラスの高官たちを乗せて、色んな重要な場所に出入りしていました。国賓館では18号楼にもよくお客さんを送っていました。江○○や、李○たちが目と鼻の先のところにいるところまで車で行った」。

 なるほど。誇れるわけが少し分かってきた。
 「そういうような客から聞いたことは誰にも話すことができません。×××の落選は結果発表の前からも知っていたのですけど…」
 しかし、最近はこの類の仕事には魅力を感じなくなったという。
 「昔は会議開かれる前や間の休み期間には郊外への物見遊山もあったが、今はほんとに会議しかやらなくて、全然リフレッシュができない。」


 日本との縁も深いようだ。90年代はじめ、北京に進出してまもない某日本の団体の北京事務所で働いていた。
たまたま私も知っている人の名前が出てきて、びっくりした。
 「日本の文化界の重鎮を乗せて、国宝『清明上河図』の実物を見に行ったことがあります。故宮の中で。私も一緒になって見学させてもらいました。実に大事そうに紙を巻いていましたね」。


■一番「リスク」のあったシーンは、地方からの陳情者対応をしている部署の長官のドライバーをしていた時の出来事でした。
 長官がきっと通るだろう路の両側に、陳情者たちは待ち伏せ戦略をとることにしました。が、長官は皆の期待した通りに姿を現すことがありませんでした。郭さんのドライバー仲間は待ちわびる陳情者たちを見るに見かねて、「長官が来なくても、そこにいるのは、長官のドライバーをしている人ですよ」と教えた。とたんに、郭さんの車は「訴状を手渡してください」という陳情者20数人に取り囲まれた。
 結果は、公安局が出動して人群れをおいやり、また、同僚のドライバーも高官対応タクシー陣から永遠に名前がはずされたということ。


自分は誇れる仕事をしていたと思える人は、幸せな人だと思います。
一方、夕食はかならず子供と奥さんのために支度をしておいてから、夜の仕事に出て行く、家族第一のドライバーでもあります。