厳鳳英とテレサ・テン@黄梅劇の里・安慶

 安慶は黄梅劇の故郷です。
 祖母の95歳の誕生祝いで帰省した私は、親戚が多く住んでいる安慶で久しぶりに一夜を過ごしました。



 「夜景を見に行きましょう」
 伯父の家で夕食を済ませた後、従姉が長江の堤防まで車で案内してくれました。
 堤防は1998年の大洪水の後に修繕したもので、高さ3〜4メートルほどの石で作られた長い塀です。石壁には地元にゆかりのある歴史人物や事件の彫刻が彫られていました。
 堤防の上は登れるようになっていて、散策しやすいよう、所々東屋も作られています。
 

 夜の長江はとても静かでした。風が吹くのも波の音も聞こえず、船の明かりもほとんど目立ちません。ただ、遠方の長江大橋はネックレスのように光っていました。大橋と道路一本はさんだところに、宋代の迎江寺「振風塔」がライトアップされていて、まばゆく輝いていました。


 堤防前の広場には人だかりがありました。黄梅劇の音色が人の壁から漏れてきました。
 散策を終えて広場に戻ると、時計が10時を回り、人群れが散り始めた頃でした。
 三輪車が止まっていて、プラスチックの腰掛、舞台道具、コンセントなどが積まれているところでした。主役らしき40代の女性はハスキーな声でてきぱきと仲間たちに声をかけていました。
 女性の顔にはばっちりと白粉が施されていて、目も眉もきちんとお化粧されていました。さっきまで舞台衣装を身にまとっていたのでしょうか。今は白い袖口と腕や手を覆うだけの稽古着のようなベストを着ていました。
 長いベンチに腰をかけて、女性は果物入れの籠に入っていたお札の分配をはじめました。
 お金の配分というよりは、ひまわりの種を分け合うような感じで、一掴みすると仲間に渡していました。
 急いで帰りたい人がいるようで、「もうちょっともらって帰って」と言われても、「もういらない」と振り落として、急いでステージを後にした人もいました。


 最後まで残っていたおばさん三人組から情報をたくさん教えてもらえました。
 市内にはアマチュアによる黄梅劇の野外ステージが2箇所あります。堤防前の広場には、2つのステージがありますが、10時に終わったのはまとまった芝居を演じてくれた舞台でした。
 女性たちは午後にも公演をしたので、夜のとあわせて全部で1000元ほどのご祝儀が入ったようです。 
 「1元から100元、いくらあげるかはすべて客次第です」。
 今晩の演目は「蕎麦記」。貧乏書生が義父母の誕生祝にろくな土産を持っていくことができず、そば粉で作ったお餅をもっていたら、嫌悪を買った。書生は周りの目を気にせずにひたすら読書に励み、最後に科挙に合格して官僚となり出世した。一方の義父母は家が火事に遭い、さすらいの旅に出るしかなかった。最後に書生は義父母とめぐり合い、助けてあげて、一家は幸せに暮らしたといった内容のようでした。


 「主役の彼女、アマチュアだけど、とっても上手でしたよ。」

 
 印象に残ったのはお別れする前のフレーズでした。
 「歌を歌うことはとてもよいことですよ。胸襟を広くすることができ、いやなことを忘れて、健康にすることができるからです。明日は厳鳳英生誕80周年と台湾の歌手蠟麗君逝去15周年の日です。だから明日、彼女たちの歌を歌いましょう。公園でも家の中でも、カラオケでも、場所はかまいませんので」


 なぜか、60代のおばさんの口調から宗教心に近い敬虔な何かを感じました。
 厳鳳英(■参考 http://baike.baidu.com/view/36038.htm)は黄梅劇の歴史において、カリスマ的な人物でした。地元安慶の生まれで、「織姫」などの役で全国的にファンが多かった役者ですが、文革で「資本主義の美女蛇」とされ、迫害されて38歳で自らの命を絶ちました。
 安慶弁で言った「蠟麗君」の発音が聞きなれなくて、しかも、伝統芸能と近代の歌謡曲という関係の薄い用語の並べ方に、最初は誰のことを言っているのか、一瞬反応が鈍っていました。
 しばらくしてから、ようやく発音と漢字が合体できて、「ああ、テレサ・テンのことですね」と分かりました。
 テレサ・テンの歌は今でこそ、「経典」とされていて、幅広く愛され、CDも公に発売され、廃れることなく年中聴かれて歌われていますが、30年ほど前の中国では、「人々の意思や精神を軟弱にさせる資本主義の音色」として禁じられていました。
 禁じられた桎梏から抜け出して、自由に感情表現をしたい。そういったところこそ、一般大衆にとっての二人のアーティストの共通性なのではないかなと勝手にこう解釈しました。
 それにしても、厳鳳英とテレサーテンの歌を一緒に歌って、二人を同時に偲ぼうよと誘われたのは、さすが黄梅劇の里・安慶らしい発想と思いました。