「白雲」の変身+呉冠中氏をしのぶテレビ番組

お陰様で、24時間にもならない広州の旅を無事終え、午後、北京に戻ってきました。
飛行機時代の旅は早さと利便さと引き換えに、変化を楽しむ過程を旅人から奪いとり、残酷な代価と言えます。ロケット打ち上げを思い出させます。
今回で言うと、広州への移動というのは正確ではありません。正確に言えば、北京西部の我が家から自分を広州の町ではなく、お客さんと面会する広州の花園ホテルにまで打ち上げてくれた移動でした。町から町への移動ではなく、スポットからスポットへの移動です。
こんなとても旅とはいえない旅で感じた広州への印象ですが、スクリーンを通して見たテレビ番組のようなものでした。
一言で言うと、広州は、21世紀のシルクロードの町のようです。
色んな肌、色んな国籍の人たちが町中に溢れていました。とりわけ、ムスリムの格好をしている方が多くて、イメージとしては、砂漠の向こうから駱駝か船に乗って、どんぶらこ、どんぶらこと漂流してきた人達のようでした。

それも昼間だけならば話は別ですが、夜の12時過ぎになっても、ホテルの周辺は人出がとても多い。まるで不夜城の渋谷のよう。それも大人だけならば話は別ですが、幼稚園児か小学生のような小さな子どももたくさん見かけました。皆さん、エキゾチックなムスリムの長いスカートを穿いたりして、花屋の中、レストランの前、足つぼマッサージの店の周りを普通に歩いていました。
もちろん一人ではなく、家族や親族、友人同士のグループ行動です。どの人もちゃんとした、綺麗な服を身にまとっているので、この町での暮らしをEnjoyはしているように見えます。
「貿易商が多いようです。広州で商品をたくさん仕入れて、本国で売りさばく仕事をしています。人数は数年前に比べて、ずいぶん減りましたよ。昔はもっと多かったです」、地元の人達の話です。

朝のホテルの朝食会場にもまたもや小さな子どもさんの姿をたくさん見ました。ムスリムの子、白人の親同士が連れている黄色い肌の子どもたち、広東語、共通語、英語、聞いてもどこか分からない様々な言語、肌の色、服のデザイン、表情、好みの味もそれぞれ違うだろう人達。この巨大なガラス張りのホールに集まると、妙に調和が取れます。ガラスの外は花果山の水簾洞のような人口滝が飛沫を飛ばし続けていました。
広州は極たまにしか来ないよそ者の私にとっては、かなり神秘的な町です。



旧白雲空港(写真↑)は今、ほとんど住宅に覆われました。デベロッパーは香港の実業家の李嘉誠のようです。工事はまだ続いていますが、完成までは残りわずかとなっているようです。

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CCTV新聞】は今夜、呉冠中氏をしのぶ番組を放送していました。批評家や弟子の目に映った呉氏及び生前、呉氏への取材映像で構成した番組でした。今まで、呉氏のことは作品でしか知りませんでしたが、色々意外なことを番組を通して知りました。
 ・一枚の作品で数千万元の値段で売買されているスーパーアーティストですが、生活は極めて質素だったようです。
 身なりに気を使うことはなく、履いている靴は「孫の捨てようとしたもの」のようです。
 住まいは亡くなる直前まで、ずっとごちゃごちゃした「大雑院」の中の2DKの家だったようです。アトリエは15平米もない小さな部屋で、絵を描くための専用の机はなく、低い台の上に紙を伸ばして描いていました。家の中にはトイレがなく、用を足す時は、公衆トイレを利用したようです。
 金儲けにまったく興味がなく、商業主義に自分の絵が利用されていることに憤りを感じて、「私は“唐僧肉”のようです」(玄奘法師の肉を一口食べることができれば、不老不死できる妖怪たちはそう信じていたようです)と言っていました。
 昔からの住まいからひっこしたくない理由は、「街中にあって便利です」のほか、「いつも顔見知りに囲まれている中でこそ、絵を描こうとする意欲が湧くから」だそうです。


・若い頃、肝炎やひどい痔ろうを患い、長い間、治療を受けても治らず、「悩んでもしょうがない」と割り切り、体のことをほっといて、毎日のように野外に出て、絵を描き続けていました。それで、気づいたら病気が治り、元気になりました。


・一番恐れていたことは「老いる」ことのようです。
 「人間は体が老けていくのと同時に、感情や感性も同じペースで老いていけたら、それなりに調和の取れる生活ができるかもしれませんが、私の場合、体がどんどん老いていくのを自分で感じているのに、感情だけが若さを保っているままですから、つらいです。」

・呉氏が自分に言い聞かせていた言葉に、
 「黄山の峰の上に生えている松を見てごらん。そこに土がないからこそ、あのようなりんとした形になりました。もしもそれを土も肥料も困らないところに移せば、もう、まるで違う種類になってしまうことでしょう。」
そして、何故留学先のフランスから中国に戻ることにしたか、その理由について、
 「お前は麦だから、麦畑に撒かないと」と最愛のゴッホの言葉を引用して答えていました。